Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

花隈城

 花熊城や鼻熊城とも書かれることがある平山城の海城。

 築城年代は、永禄10年(1567)とも天正年間(1573-93.1)の初期ともいわれ、信長の命を受けた荒木村重によって築城されたという説が一般的だ。しかし、永禄10年説であれば、上洛した信長が摂津池田の池田勝正を臣従させる前であり、当時は勝正の配下であった村重の築城と考えるのには無理がある。従って、当時摂津に勢力を持っていた三好家の誰かということになり、西摂津の拠点だった滝山城の支城として築かれたと見るのが妥当だろう。

 一方、天正年間の築城であれば、それは間違いなく織田氏と対立していた本願寺対策の為に村重が築いたものであり、瀬戸内海を介して繋がる毛利氏との連携を遮る目的だったと思われる。

 築城者とされる村重は、前述のように池田家臣であったが、勝正の弟知正の叛乱に加担して池田家中で実力を高め、信長に摂津の差配を任された摂津三守護のひとり和田惟政を討った。さらに、信長に評価されて知正と袂を分かち、同じく三守護のひとつに数えられた池田氏を乗っ取る形で独立を果たしている。そして、残る三守護である伊丹親興をも打倒して、摂津一国を掌握した。信長から摂津一国の支配を任された後、この花隈城には一族の荒木元清を配し、西の抑えとしていたのだが、村重は天正6年(1578)に信長に対して叛旗を翻すのである。

 伝えられる話では、本願寺攻略のさなかに配下の兵卒が本願寺側に兵糧を渡したとの噂が立って信長に誅されるのを恐れた為だとか、旧知の武将が別所方に付いた事で疑われた為だとか、出世を妬んだ同僚の讒言によって進退に窮した為などといわれ、謀叛を考えていた明智光秀による讒言という突飛な説まであるが、いずれにせよ、播磨攻略戦での戦意の無さなどを考えると、謀反前後は追い詰められて通常の精神状態とは違ったのではないだろうか。計画的な謀反を考えているならば、普段通りかそれ以上に忠勤に励むほうが信長に悟られにくく、また、当然ながら虚を突くことから対策も講じられにくい。池田家中での下剋上を見ても謀略が使える人物であり、尚且つ前線の経験も豊富で合戦の呼吸をわきまえた叩き上げの武将としては、ちょっと考えられない行動で、計画的でないことは間違いなさそうだ。

 理由はともかく、反信長陣営に投じた村重は、居城有岡城に籠城するのだが、高槻城高山右近重友と茨木城の中川清秀が信長に帰順して摂津東部が失われ、北摂津も各城の家臣が織田方に寝返り、居城伊丹城を中心とする西摂津に押し込められて完全に包囲されてしまう。

 期待した毛利の援軍も無く、展望が開けない村重は、翌年に家臣数名と共に極秘裏に尼崎城に移っているが、この行動は、逃亡とも直接毛利家に援軍を請う為ともいわれる。だが、史料を追うと、尼崎城から雑賀衆などの援軍を求める書状を出しており、村重にとっては勝利を求めての起死回生の一手だったのかも知れない。だが、期待していた毛利の援軍は結局来ず、毛利氏の援軍を強く催促するかのように、さらに12月には尼崎城からこの花隈城へと移っている。

 村重単独の戦いでの花隈城は、最後の拠点であったが、この織田家と反織田連合の一連の戦いでの役割を見ると、別所氏の三木城へ糧食を運ぶ補給路の重要な中継拠点のひとつであり、村重の謀叛によって新たにできたものであった。しかし、三木城が堅いと知った秀吉は、この城から北へ繋がる補給路を潰し、着々と三木城を孤立化させていくのである。この補給路潰しが天正7年(1579)5月、反織田陣営だった丹波波多野氏の滅亡が6月、村重の尼崎城への脱出が9月、花隈城への移動が12月という流れで、村重の焦りが日に日に増して行ったのは想像に難くない。

 村重は、天正8年(1580)正月に別所氏が滅亡した後も、この城で絶望的な籠城戦を戦い続けてよく城を支えたが、同年7月に落城して毛利氏を頼って落ち延びた。後に村重は、自嘲するように道糞と名乗って秀吉にお伽衆として仕えているが、高山右近重友を非道の者と罵ったという逸話があり、この時のことはなかなか忘れられるものではなかったようだ。

 城は落城後、花隈城攻略に功のあった池田恒興に与えられたが、恒興は花隈城を廃し、その資材を用いて兵庫城を築いた。ちなみに恒興は信輝の名でも知られ、諸説はあるものの、一説には摂津池田氏の支流という。その説が正しいとするならば、摂津池田氏の勝正や知正に取って代わった村重が再び池田氏に取って代わられたということになり、歴史の巡り合わせとは言え、不思議な因縁と言える。

 花隈城のハナは鼻、つまり海に突き出した岬という意味で、今の城跡は市街地に没してしまっているが、当時は城のすぐ南に海があったという。また、北には今も斜面が迫っており、当時の地形がおぼろげながら判る。城地は東西約350m、南北約200mの範囲で、現在の城跡には花隈公園の石垣があるが、これは遺構ではなく、公園造成の際に造られたもので、兵庫城築城で資材が持ち出されている為、ほとんど遺構は残っていなかったのだろう。公園にはそのほか、江戸時代を生き抜いた池田家の子孫によって、花隈城址の碑が建てられている。

 


最終訪問日:2003/10/12

 

 

JR元町駅のすぐ西、電車から見える石垣造りの四角い構造物が花隈公園で、城跡です。

今は完全な市街地ですけど、当時はこの付近まで海だったんですよね。

城の痕跡はほぼ無いですが、かつての海を想像しながら辺りを見回すと、また違った景色や役割が見えてくる城です。