都道府県別-愛媛
来島海峡S.A.の展望台から来島大橋を望む 本州四国連絡橋3ルートの中で、一番最後に暫定ながら開通したルート。正式には西瀬戸自動車道といい、一般には愛称のしまなみ海道で呼ばれることがほとんどである。ただ、公募によって付けられた正確な愛称は、瀬戸…
細長さでは日本一といわれる佐田岬半島に通されている道で、国道197号線の佐田岬半島部部分の愛称。全長は38.9kmだが、地図読みでは5kmほど短くなるため、事業計画での全長と、現在の佐田岬メロディーラインと呼ばれる区間では、やや区間に違いがあるようだ…
中世に伊予守護職として、中予を支配していた河野氏の居城、湯築城に関する資料館。平成14年(2002)4月12日の開館。 松山の城といえば、松山城が真っ先に思い浮かぶが、中世の松山一帯を支配していた河野氏は、道後温泉にほど近い道後公園にあった湯築城を、2…
しまなみ海道が結ぶ芸予諸島の島々を拠点として、中世に瀬戸内で勢力を築き、海上交通を支配していた村上海賊に関する博物館。 平成16年(2004)10月の開館で、正式には今治市村上海賊ミュージアムという名前だが、これは令和2年(2020)4月に改称された名前であ…
元禄4年(1691)に開坑した別子銅山は、豪商住友家の商売の礎となり、明治時代の住友財閥の基盤にもなったが、昭和48年(1973)に閉坑した。 この記念館は、住友家飛躍の原動力となった、この別子銅山の歴史を伝えるべく、住友グループが共同で昭和50年(1975)に…
海上のフェリーから佐田岬の眺め 愛媛の大洲と八幡浜を結ぶラインの少し北側、四国から約50kmほど突き出した佐田岬半島の先端で、四国の最西端。岬に建つ佐田岬灯台は、現地案内板は確認できなかったが、文化庁のデータでは、北緯33度20分36秒、東経132度0分…
大山祇神社神門とその先の拝殿 大三島に鎮座する神社で、全国に勧進された大山積神社や三島神社の総本社。伊予国一宮で、延喜式では、大山積神社の名で明神大社とあり、明治以降の社格は国幣大社であった。戦後は神社本庁の別表神社となっている。 大山祇神…
改修工事中だった頃の夜の道後温泉本館 非常に有名な温泉で、日本三古泉のひとつ。 道後温泉は、三古泉に数えられているように、その歴史は有史以前に遡る。湯神社などがある冠山からは、約3千年前の縄文時代中期の遺物が発掘されており、その当時から、周辺…
展望台の龍王の砦から内子市街を望む 伝承では、平安時代に越智喜多守が砦を築いたのが最初という。ちなみに、この越智氏の庶流だった玉澄が、風早郡河野郷に住んで河野を称し、後に伊予守護となる河野氏の祖になったといわれる。 室町時代の応永年間(1394-1…
伊予の名族、河野氏の累代の居城。 河野氏は、古代氏族越智氏の流れといわれる。越智氏は、孝霊天皇の末裔という説や饒速日命を祖とする物部氏の分かれという説があるが、孝霊天皇は第7代という天皇家草創の頃の人物で、饒速日命も日本書紀や古事記に載って…
天守の現存する12城の内のひとつで、日本三大連立式平山城にも数えられる城。 現在の松山市街地は、中世は伊予守護の河野氏の本拠地で、道後温泉近くの湯築城がその居城であった。その城跡は道後公園となっているが、松山城からもはっきり確認できるほど近い…
松前城城址碑 松前はマツマエではなくマサキと読み、正木城や柾木城とも書く。 松前城の築城年代は不明だが、平安時代には定善寺があり、その境内に設けられた砦がその最初という。 史料に最初に現れるのは、建武3年(1336)の「祝安親軍忠状」で、南朝方に属…
生子山城は、南北朝時代の細川氏侵攻時に、南朝方の越智俊村が設けた砦に始まるという。ただ、細川氏の伊予侵攻は幾度かあり、具体的にいつ頃の築城かはよく分からなかった。また、一説には、一条通村による築城という説もあり、後述の松木景村による築城説…
唐子浜の正面にある急峻な唐子山にある城で、国分城や府中城とも呼ばれる。 国分山城が築城された時期は明確でなく、南北朝時代の頃であるという。ただ、伊予国府から近いという地勢的な条件や、手頃な標高というのを考えると、それ以前から、国府を守護する…
戦国時代末期に南伊予を領していた西園寺氏の居城。 西園寺氏は、藤原氏の北家閑院流で、一門庶流の多さから居館の位置や役職によって一条氏や九条氏と呼ばれたように、現在の金閣寺付近の位置に西園寺という寺を造営したことから、西園寺と呼ばれた一族であ…
海際の鷲尾山にある城で、仏法寺の仏堂を取り込んで築かれたため、仏殿城ともいう。 川之江城の築城は南北朝時代で、延元2年(1337)のことである。当時の伊予守護である河野通盛は、阿波や讃岐の細川氏に対する防衛拠点を欲しており、伊予の東口であるこの川…
金子氏代々の居城で、金子山城ともいう。 金子氏は、もともと武蔵七党の村山党の豪族で、桓武平氏である。平頼任が多摩郡村山郷を領して地名を称したのが村山党の最初で、その孫家範が入間郡金子郷に入って金子氏の祖となり、家範の子家忠は保元元年(1156)の…
来島海峡の西南、しまなみ海道を一望できる位置にある山城。現在は海山と書いてオミヤマと読む。 古くは、奈良時代に狼煙台が置かれ、西の半島の突端にある宮崎から、遠見山と呼ばれていたこの海山を経由し、唐子山付近の伊予国府まで狼煙が伝えられたという…
大除城解説板 敵を大いに払い除くという意から命名されたという山城。 大除城の築城年代は不明だが、愛媛県史では、久万山に跋扈した久万出雲入道を大野通繁・綱直兄弟が平定した、寛正5年(1464)前後と推測しており、この久万入道が築城したとの庄屋記録があ…
大洲城の前身は地蔵ヶ嶽城といい、大洲の字に定まるまでは、大津城とも書かれていた。 築城は、豊前の宇都宮頼房の子豊房が伊予守護に補され、元徳3年(1331)に入国して地蔵ヶ嶽に城を築いたのが最初という。 ただ、伊予守護職は、承久3年(1221)の承久の乱後…
天守の現存する12城の内のひとつ。 宇和島城の築城時期は、はっきりと判っていないが、伝承では、天慶2年(939)末から同4年にかけての藤原純友の乱の際、伊予国警固使だった橘遠保が、砦を構えたのが最初という。その後の伊予国宇和地方は、遠保の活躍もあっ…
日本三大水城に数えられる城で、別名吹揚城ともいう。 豊臣政権末期から、いち早く家康に接近した藤堂高虎は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で東軍方の重要な大名として働き、戦後に伊予半国20万石を与えられた。 それまでの東予における拠点は、今治から南東…