Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

黒瀬城

 戦国時代末期に南伊予を領していた西園寺氏の居城。

 西園寺氏は、藤原氏の北家閑院流で、一門庶流の多さから居館の位置や役職によって一条氏や九条氏と呼ばれたように、現在の金閣寺付近の位置に西園寺という寺を造営したことから、西園寺と呼ばれた一族である。地方の豪族は、本貫の地名を名字とした豪族が多いが、そういう意味では、やや性格を異にする豪族と言えるだろうか。

 前述にあるように、家名の元となる西園寺を造営し、西園寺殿と呼ばれたのは、藤原公経の時で、公経は頼朝と姻族であったため、承久3年(1221)の承久の乱では後鳥羽上皇に幽閉されたものの、乱後は鎌倉幕府の影響力を背景に、朝廷で重きをなした。

 一方、この伊予国宇和地方は、橘遠保が天慶2年(939)末から約2年に渡って続いた藤原純友の乱で活躍したこともあり、代々橘氏の所領であったのだが、その公経が宇和地方を所望したことから、嘉禎2年(1236)に橘公業から公経へ譲られ、宇和荘という荘園として領国運営されることとなる。

 その後、南北朝時代の永和2年(1376)頃に、庶流の公良が領地管理のために下向して在地領主化し、これが伊予西園寺氏になったという。ただ、宇和地方における西園寺氏の活動は、それ以前の正平15年(1360)には確認されており、それは後醍醐天皇に近かった西園寺公重南朝方として発給した文書と見られることから、公重の子孫が在地領主化した可能性もあるようだ。

 公良家祖説に従えば、公良は肱川を挟んだ北の山向かいにある松葉城に入り、以後代々の西園寺氏の居城となっていたが、戦国末期に至って情勢の悪化から、より防衛しやすい城が構築されたという。それが黒瀬城である。

 黒瀬城の築城は、天文年間(1532-55)後期か弘治年間(1555-58)頃とされ、一般的に築城者は実充とされるが、一説には実充が計画し、実際に築いたのはその養子公広ともいう。ただ、「言継卿記」には、実充は黒瀬城に在って黒瀬殿と称されていたことが見え、少なくとも実充の時代には、居住できる程度までは工事が終わっていたと思われる。

 この頃の西園寺氏は、近隣との争いが絶えず、弘治2年(1556)には実充の嫡子公高が宇都宮豊綱の攻撃によって敗死し、実充が逆襲して大洲の地蔵ヶ嶽城下に迫るなど、宇都宮氏と激しく争っていた。また、南からは宇都宮氏と結んでいた一条兼定の攻撃も受け、永禄9年(1566)には黒瀬城も大友軍の攻撃に晒されている。

 このように、黒瀬城築城後は、西園寺氏にとって困難な情勢が続いたが、永禄11年(1568)に河野氏が中国の覇者毛利氏と結んで豊綱を攻撃すると、公広はこれに参陣して宇都宮・一条連合軍を破り、宇都宮氏を滅亡に追い込むことができた。

 だが、続いて遺恨の残る一条氏を攻撃したことによって、一条氏と婚姻していた豊後の大友宗麟の軍事介入を受け、元亀3年(1572)には黒瀬城も攻撃され、降伏に近い形で和を乞う羽目となっている。その後、一条氏が長宗我部元親によって傀儡化されると、今度は元親の猛烈な攻勢を受け続け、ついに天正12年(1584)に開城降伏した。

 しかし、伊予で西園寺氏河野氏を次々に降して伊予を制圧した元親も、天正13年(1585)の秀吉による四国征伐に敗れ、元親に臣従していた公広もまた、小早川隆景の軍に開城降伏している。

 伊予は、隣国に大友氏や毛利氏、長宗我部氏といった強国が存在し、その影響力が及びやすいためか、割拠しやすいような山深い地形が多いためか、伊予のどの大名家も、中世的な半独立状態の国人や地侍を、強力な主従関係のある家臣団に編制できなかった。

 西園寺氏も例に漏れず、個別に見れば、長宗我部氏の伊予軍代である久武親信を敗死させた土居清良や、大友氏の水軍を撃退した法華津前延などの勇将もいたが、独立心旺盛な家臣の内訌や叛乱に勢力を削がれ、強国に対抗できる力を最後まで持つことができなかったのである。

 秀吉に降伏した後の公高は、伊予一国を与えられた小早川隆景の下で、黒瀬城に在城することを認められた。だが、2年後の九州征伐後に隆景が筑前へ移封し、新たに戸田勝隆が大洲に入城すると、検地に反対する西園寺旧臣の一揆が起きたため、公広は下城を命じられて蟄居することとなり、挙句の果てには、旧来勢力の影響力排除のため、勝隆の屋敷に誘い出されて切腹さらせれてしまう。こうして、主を失った黒瀬城も廃城となった。

 事前に黒瀬城についてあまり調べずに訪れたため、JR卯之町駅で色々と情報収集したが、観光パンフレットなどには城が記載されておらず、観光資源としては見られていないようだ。後で調べてみたところ、宇和運動公園の後背に城があるらしい。

 

最終訪問日:2004/9/11

 

 

明らかに雨をもたらす黒い雲が南から迫っていて、しかも国道56号線が渋滞していたので、怪しそうな所をウロウロすることもできず、訪問を断念しました。

スマホがある今は、探すのもどうってことは無いんでしょうね。

お城の場所や登山口を探すのも、楽な時代になって、喜ばしい限りです。