高崎城の前身として、和田城という城があり、鎌倉時代に和田正信が居館を構えたとも、正長元年(1428)に和田義信が築城したとも伝えられる。
和田氏は、坂東八平氏のひとつに数えられる三浦氏の庶流で、最初に和田を称した義盛は、初代侍所別当を務めた鎌倉幕府創業の功臣であったが、後に北条氏と対立して建暦3年(1213)に和田合戦という乱を引き起こし、一族のほとんどは滅んだ。
その中で、義盛の六男義信の系統とされる上野の和田氏は滅亡を免れた。ただ、義信も18歳の若さで和田合戦において討死したと「和田系図」にはあり、どのように系統を伝えたのかは定かではない。
室町時代の和田氏は、上州一揆を構成する豪族衆のひとつとして関東管領上杉氏に属し、永享10年(1438)の永享の乱や享徳3年(1455.1)からの享徳の乱といった関東の騒乱に活躍した。前述の正長元年の築城説が正しいのならば、このような争乱の前兆があったのかもしない。
戦国時代になると、勃興した北条氏の攻勢により、上野守護であった山内上杉氏は北に追いやられ、やがて越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼って山を越えると、和田氏を始めとする西上野の諸領主は、箕輪城に在った守護代長野業正と姻戚関係を結び、業正を盟主に連合して上杉氏に属し、侵入してくる武田氏や北条氏と戦った。長野氏を盟主とするこの連合は箕輪衆と称され、劣勢時には共に箕輪城で籠城することもあったようだ。

しかし、和田家当主の業繁は、謙信が関東管領職を正式に継承した永禄4年(1561)に武田氏に通じたようで、さらに幾度も信玄の攻撃を撃退した名将業正が2年後に没すると、信玄は好機とばかりに箕輪城を攻略し、和田氏を始めとする西上野の諸領主は武田氏の上州先方衆として家臣団に組み込まれた。その後、和田城も永禄9年(1566)に謙信の攻撃を受けたが、寡兵ながら武田軍の援将横田康景と共に撃退するなどしている。
信玄と謙信という両雄が没し、織田氏によって天正10年(1582)に武田氏が滅ぼされると、上野には滝川一益が入部して和田氏も織田氏に属したが、同年の本能寺の変で一益が上方に逃げ帰ると、和田氏は攻勢を強めた北条氏に従うようになった。そして、同18年(1590)の小田原の役の当時には、当主信業は小田原に籠城しており、家臣が守った和田城は落城している。
北条氏の降伏後、信業は小田原を脱出して家康配下の小笠原氏を頼り、子孫は保科氏に仕えたというが、和田城はこの落城後に廃城となったようだ。
戦後に旧北条領をほぼ継承した家康は、西上野の要である箕輪城に徳川四天王の井伊直政を封じたが、直政は慶長3年(1598)に家康の命で箕輪城を廃し、和田城のあった場所へ新たに城を築き、名前を高崎と改めて移った。
直政は2年後の関ヶ原の合戦後に近江佐和山へと移り、江戸時代は酒井氏、戸田松平氏、藤井松平氏、安藤氏、大河内松平氏、間部氏と譜代衆が入れ替わり入部したが、再び松平大河内氏が藩主となって維新を迎えている。城も、明治4年(1871)の廃藩置県後に城としての役目を終え、翌年には陸軍省の管轄となった。

城は、城郭内を見れば平坦な地形の上にあり、これだけを見れば平城のようだが、西に烏川の断崖を控えているという典型的な崖城で、急峻な山の少ない関東には多い城の形式である。
城の構造は、断崖上の本丸を囲んで二ノ丸、榎郭、西ノ丸があり、三ノ丸が東へ続き、その郭を区切って三重の堀があった。本丸には天守の代わりとなった御三階櫓と呼ばれる三層の櫓と隅櫓があり、16の城門を備えた典型的な近世の城であった。
普通、市街地の城は周辺部が壊され、中心部が残っていることが多いが、高崎城は逆に三ノ丸の土塁と堀の大部分残っており、その内側は公官庁街として綺麗に整備されてしまっているため、中心部の遺構が残っていない。これは昭和20年(1945)まで東京鎮台高崎分営や歩兵連隊の兵営として使われていたためだろうか。
また、三ノ丸も、土塁が部分的に高い場所や低く削平されてしまっている場所があり、堀も、往時は幅が25mあったが、現在は道路として埋め立てたことで狭くなっており、完全に残っているわけではない。
三ノ丸北西隅には、もともと本丸にあって、民間に払い下げられていた乾櫓と東門が、県下唯一の城郭建造物として移築、保存されており、城跡の雰囲気が感じられる数少ない場所となっている。
最終訪問日:2001/9/30
都市の公官庁街として再開発されたお城は多いんですが、高崎城はその傾向がかなり強いですね。
外堀のラインはめちゃくちゃ綺麗に残っているのに、その内側は綺麗に再開発されてしまって、お城の痕跡はめちゃくちゃ少なかったです。
ある意味、とても印象的でした。