Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

館林城

復元されている館林城三ノ丸土橋門

 江戸時代に書かれた「館林記」には、天文年間(1532-55)から弘治年間(1555-58)にかけて赤井照光が築城したとあるが、それが確認できる記録は発見されていない。

 史料上の最古の記録では、文明3年(1471)に赤井文六・文三の居城として登場する。また、狐が尾で城の縄張をしたという狐の尾曳伝説がよく知られ、別名を尾曳城ともいう。

 赤井氏は、藤原小黒麿を祖とする伝説があるが、藤原秀郷流佐貫氏の出とも、源頼季流赤井氏の一族ともいわれる。実際は、館林で勢力を持っていた秀郷流足利氏の一族である佐貫氏の、さらにその一族である舞木氏の被官として登場するため、佐貫氏の流れを汲む末端の庶流か、在郷領主が仮冒によって佐貫氏の出自を称したと見るのが妥当のようだ。

 戦国時代の赤井氏は、鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏の対立である永享10年(1438)の永享の乱や享徳3年(1455.1)からの享徳の乱といった関東の騒乱を背景に、主家である舞木氏を下剋上で圧倒して戦国大名の道へと進むのだが、上野は由良氏や長野氏が大名としては筆頭格で、赤井氏は中小豪族にとどまっていた。

 その後、古河へ移った足利公方家と山内上杉家扇谷上杉家が争いを続ける間、伊豆に興った北条氏が勢力を拡げ、天文15年(1546)に河越城の戦いで前述の旧権威の三家が敗れると、北条氏の優勢は決定的となり、関東管領山内上杉憲政もその勢いに抗しきれず、天文21年(1552)かその数年後、あるいは永禄元年(1558)に越後へ落ち延びることとなる。

 そして永禄3年(1560)に、憲政を奉じて長尾景虎(上杉謙信)が関東へ出兵すると、照康の子で当主となっていた照景は、古河公方に味方してこれに服さず、同5年(1562)景虎の攻撃を受けて落城し、武蔵忍城へと逃れた。以後、宇都宮氏を頼ったともいわれるが、歴史からは姿を消している。

 赤井氏の退去後、城は足利長尾家の景長に与えられたが、上杉勢が上野から退潮となると、景長は北条氏に臣従した。永禄12年に(1569)に景長が没すると、城は景長の娘婿で上杉氏に近い廣田直繁に与えられたが、同じく由良氏から景長の女婿として入っていた顕長が奪っている。この辺りは、謙信の上野で勢力の増減が表出した結果なのだろう。

 その後、武田氏の上野進出や甲相同盟、越相同盟など情勢が変転し、それぞれ信玄、謙信、氏康という巨星の死もあって、長尾氏は実家の由良氏と連携しながら上杉氏と北条氏の間を行き来して生き延びた。

 だが、北条氏が上野支配を確実にするために、謀略を用いて実兄由良国繁と共に顕長を拘束して館林城を開城させたため、天正12年(1584)には北条一門の北条氏規の属城となり、南条昌治が城将を務めている。

 その後、同18年(1590)の小田原征伐の際には、攻略者は不明ながら、他の支城と共に落城したという。一方で、この時、石田三成が城沼に切り出した木を投げ入れて攻撃路を作ったが、翌朝には狐の加護によって木々が沈み、攻撃できなかったという伝承も伝わっている。

 戦後、利根川の水運を押えると共に東北方面への要衝として、城は徳川四天王のひとりである榊原康政に10万石で与えられた。これは、井伊直政本多忠勝と同じく秀吉の意向を受けたもので、徳川領の外縁部の安定が、豊臣政権にとっても重要であったことを示している。

 榊原氏による館林支配は、康政の子康勝、康政の外孫である忠次と続いたが、寛永20年(1643)に忠次が奥州白河へと移ると、大給松平氏2代を挟んで4代将軍家綱の弟綱吉が入り、館林徳川家が成立した。そして、綱吉が5代将軍に就くと、その嫡子徳松が領主となったが、若くして夭折してしまい、綱吉は悲しみのあまり館林城を破却したといわれる。

 その後、天領がしばらく続いたが、宝永4年(1707)に越智松平氏の入封で藩が再興され、太田氏、天領を挟んで再び太田氏、越智松平氏、井上氏、秋元氏と続き、維新を迎えた。

 城は、東と南に城沼が広がり、沼に突出した低台地を区切って本丸、二ノ丸、三ノ丸、八幡郭、南郭を置き、それを囲むように稲荷郭、尾曳郭、外郭、惣郭を構えていた。この本丸から三ノ丸までか、それに尾曳郭や稲荷郭を加えた範囲が、最も初期の城域だったと思われ、その頃は平山城に近い様式だったと思われる。

 やがて時代と共に改修拡張されるにつれ、沼を挟んだ外郭や、総郭を加え、小田原城のように長大な惣構として土塁や堀を築いたのだろう。この辺りは、北条流の築城術が色濃く出ている。

 榊原氏時代になると、さらに改修されて近世城郭としてほぼ完成し、綱吉の時代には南北1km、東西1.4kmもの規模になった。ただし、その後の破却と縮小再築により、その後の城は最盛期より規模は小さくなっている。

 維新後の館林城は、明治6年(1873)の廃城令によって廃城となり、翌年には城の建物の大半が焼失してしまったため、現在は再建された三ノ丸の土橋門が、城の建物として存在するのみとなっている。そのほかの遺構としても、本丸、三ノ丸、稲荷郭、城下町に土塁が一部残っているに過ぎず、歴史上重要だった城としては、少し寂しい状況だ。

 

最終訪問日:2001/9/29

 

 

歴史上で館林城の名は結構出てくるんですが、要衝の平城だけに、開発の波に飲まれてしまってますね。

城好きとしては、寂しい限りですが。

城沼は健在なので、城沼辺りからなら戦国時代の姿を想像できるかもしれません。