Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

忍城

 関東七名城のひとつで、湖沼に浮かぶように見えたことから、忍の浮城ともいう。

 忍城の築城時期には、延徳2年(1490)を始めとして様々な説があるのだが、文明10年(1478)頃の築城が有力といわれている。当時は、古河公方足利成氏関東管領上杉氏が争った享徳の乱の末期で、さらに長尾景春が上杉氏に叛乱を起こしていた最中でもあり、忍周辺の領主として扇谷上杉氏に属していたいた忍大丞や児玉重行を、足利氏に属す成田正等・顕泰父子が謀って攻め滅ぼし、領地にしたという。

 ちなみに、この重行は児玉大丞重行とも伝わっており、忍大丞と官途が同じことから、同一人物の伝承が2人の武将の話として伝わった可能性が高そうだ。

 ここで忍の歴史に登場してくる成田氏は、「藩翰譜」では藤原道長流の説を、「成田氏系図」では藤原基忠流の説を、「埼玉県史」では横山党説を採っており、その出自ははっきりしない。いずれにしても、開拓領主として成長し、鎌倉時代御家人としてその名が見えるが、鎌倉幕府滅亡と共に没落したようで、武蔵七頭のひとつである丹党の安保信員が成田家資の娘を娶っていたことから、その孫行員が名跡を継ぎ、室町時代には次第に勢力を拡げたという。

 前述のように、忍氏を滅ぼして忍を手に入れた成田氏は、その拠点として忍城を築いたが、翌年には扇谷上杉氏の報復攻撃を受けている。この時は、足利氏と上杉氏の間で和睦交渉が持たれていたこともあってか、扇谷上杉氏の家宰太田道灌の仲介で和睦したという。

模擬復元された忍城御三階櫓

忍城本丸跡

 これ以降の顕泰の代には、成田氏は岩槻城忍城を維持していた推測されるが、何らかの理由で永正6年(1509)に本拠を忍城へと移したようだ。この永正6年(1509)は、越後守護上杉房能が養子定実と守護代長尾為景に討たれた年で、これを受けて、房能の実兄で関東管領である山内上杉憲定が越後へと遠征をしており、この影響と考えるのが妥当だろう。また、この少し前から、顕泰は山内上杉家に属していたようだ。

 しかし、顕泰の子親泰が天文14年(1545)に没すると、その子長泰は親北条の立場を採った。ただ、河越夜戦が顕泰の死の翌年であり、長泰が河越夜戦に参陣していたという説と、足利・上杉連合軍に攻められたという説があり、北条氏への臣従はいつ頃かはっきりしない。また、天文22年(1553)に北条軍が忍城を攻め、撃退されたという話も伝わっており、この辺りの成田氏の動向には諸説あるようだ。

 その後は、長泰は北条方として活動しているが、追い詰められた関東管領山内上杉憲政が越後に落ち延び、その要請により、永禄3年(1560)から越後守護代長尾景虎(上杉謙信)の越山と呼ばれる関東遠征が始まると、長泰は景虎に味方した。だが、翌年の小田原攻囲の後、鶴岡八幡宮での景虎関東管領就任式で、長泰が下馬しなかったことを咎められ、兵を率いて忍城へ帰ってしまっている。一説に、羽生領を巡る恩賞に不満があったともいう。

忍城東門とあずま橋

忍城に移築されている伝進修館表門

 いずれにしろ、長泰は上杉陣営から去る事となり、永禄6年(1563)には上杉軍に忍城を攻められ、降伏している。この時、長泰は隠居に追い込まれたと見られ、氏長が当主となっているが、永禄9年(1566)以降、同12年(1569)までには北条方に転じたようで、同年の越相同盟成立の際には、上杉方と北条方で家臣の整理と相互承認が行われ、氏長は北条家臣として承認された。

 その後、北条氏康の死と共に機能不全の越相同盟は破談となり、天正2年(1574)には上杉方に城下を焼き払われるなどしているが、この破談によって上杉勢は武蔵から退き、以後は短い平和が訪れている。

 しかし、天正10年(1582)に武田氏が織田・徳川連合軍に敗れて滅び、上野に織田氏の勢力が進出すると、氏長は織田家滝川一益と誼を通じた。とは言え、寝返りという話でもなく、北条氏も織田氏と婚姻を結ぶ予定であったように、表面上は北条氏と織田氏の間にも友好的な関係が築かれている。

 このような、新たな権威である一益に領地安堵を求めた関東諸豪族の動きを見ると、北条配下と見られがちな諸豪族は、明確な北条家臣ではなく、あくまでその指揮下にあったに過ぎず、戦国末期の時期でも、関東は中世的な主従関係を未だに引きずっていたことがよく解るだろう。

忍城鐘楼

当時の忍城の広大な堀の一部が残る水城公園

 同年6月の本能寺の変後は、一益の勢力は神流川の合戦の敗北によって失われ、上野にも北条氏の勢力が及び、氏長は再び北条氏に属した。そして、天正18年(1590)の小田原の役の際は、氏長は小田原城に詰め、一門の成田泰季・長親父子が守将となったが、この時の忍城での戦いが非常に有名となる。

 忍城を攻撃する秀吉軍は、石田三成などの秀吉側近の吏僚に北国勢、関東勢、浅野長政や徳川家臣らの別動隊が加わった総勢2万3千で、対する忍城守備隊は僅か3千であったが、沼に囲まれた城は堅固で、6月初めからの緒戦では、攻城軍は攻めあぐねた。そこに秀吉から水攻めにするよう指示が入り、三成は僅か5日ほどで城を半円状に囲む約28kmもの堤防を構築するのだが、城方の破壊工作もあって堤防が決壊してしまう。

 こうして、文字通り攻城軍は泥沼にはまり、忍城が陥落しないまま7月5日に小田原城が開城降伏したため、城主成田氏長の要請で7月16日に開城した。

 戦後、成田氏は蒲生氏郷の預りとなり、北条氏の旧領を与えられた家康の四男忠吉が10万石で入部したが、幼少のため、深溝松平家忠、次いで小笠原吉次が運営し、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後は忠吉の転封によって天領となっている。

忍城説明板

忍城の今昔地図

 その後、寛永10年(1633)に知恵伊豆の異名を取った大河内松平信綱が入ると、忍藩が再び成立し、次に入封した阿部氏の時代に改修が施され、正武の代に御三階櫓が建設されたという。そして、奥平松平氏と続いて維新を迎え、明治6年(1873)の廃城令で廃城となり、建物などが破却された。

 城は、南東方向へ流れる利根川と荒川の間に位置し、その2流を外の防御線として、沼地に島が点在するという地形を有効利用した城である。それぞれの島を郭として拡張して郭とし、広い水堀が防御力の要となっていた。

 江戸時代の縄張では、方形に近い本丸の北から東の2方向を囲う諏訪郭を置き、その2つの郭の東南北3方向を囲うように二ノ丸を、二ノ丸の南に細長い三ノ丸を置いている。これ以外にも、水堀の中に島や郭があり、幅広の水堀の対岸も城郭化されているが、初期の城は、堀の内側にある非常に複雑な縄張の部分だったのだろう。

 現在の忍城は、本丸から諏訪郭の一部が城跡として残るのみで、幅広の水堀は市役所などの用地となって埋め立てられ、僅かに内堀と模擬の三重櫓がその威容を伝えるのみである。そのほかでは、南東の水城公園が当時の堀の地形と雰囲気を残しており、水辺を散策した時の景色が、戦国当時の様子を最も連想できるものなのかもしれない。

 

最終訪問日:2019/5/13

 

 

城の近くに宿泊したので、散歩でお城にも行ったんですが、三重櫓の夜景も綺麗でしたね。

時間に余裕があるのであれば、堀の一部がそのまま残っている水城公園の散策がお勧めです。

水攻めしたくなる気持ちも解るので笑