Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

岩槻城

 当時は岩付城や岩附城とも書かれた平山城で、別名を浮城、白鶴城ともいう。

 かつては、長禄元年(1457)に太田道真・道灌父子によって江戸城河越城と共に築かれたとされたが、「鎌倉大草紙」に取り立てられたと記述されている事から、それ以前から存在したと推測されており、一説には、鎌倉時代中期にはすでに城があったとする。一方で、「自耕斎詩軸并序」には、文明10年(1478)に自耕斎正等が築城したという記述があり、これも有力視されているようだ。

 この正等という人物は、長尾氏から成田氏へ養子に入った顕泰の養父であったといい、この説に従えば、これまでの通説であった太田氏の城ではなく、築城当初は成田氏の城であったということになる。

 つまり、成田氏の本拠忍城と同時期の築城され、享徳の乱古河公方足利成氏方であった成田氏による、対上杉氏の前線の城として、忍城と共に当時の荒川流域の防衛線を担った城ということになるのだが、これまでの通説とは真反対の役割となり、当時の関東の情勢にも再考が必要となりそうだ。

 また、戦国期の荒川は、城の西の綾瀬川の川筋を流れていた時代で、今の元荒川の川筋は星川のみの流れであり、水量が多くなかった。岩槻城の直接の城堀としては星川が機能したと思われるが、城の西に流れていた当時の荒川が大河だけに、古河の西方向の面としての防衛線として考えやすかったという事にも留意する必要がある。

公園内にある岩槻城址碑

岩槻城址公園の菖蒲池と八ツ橋

 築城当初の城の事績は、このように不明な点が多いのだが、築城後の事績も明瞭ではない。築城後は、顕泰が保持していたと見られるが、何らかの理由で永正6年(1509)に忍城へと移ったようで、代わって岩槻城に入ったのは、扇谷上杉家臣の太田資家、あるいは岩槻の豪族で足利公方家の奉公衆であった渋江氏と見られる。

 この永正6年は、越後守護上杉房能が養子定実と守護代長尾為景に討たれた年で、これを受けて、房能の実兄で関東管領である山内上杉憲定が越後へと遠征をしており、この余波と推測することができるだろうか。

 次に岩槻城が登場するのは、大永4年(1524)、あるいは同2年(1522)で、2月に資家の子資頼が北条氏に寝返って岩槻城を攻め落とし、渋江右衛門大夫を敗死させたとあることから、この頃には渋江氏が城主となっていたようだ。

 これにより、資頼が岩槻城主となるのだが、同年7月には扇谷上杉氏の依頼で攻撃してきた武田軍に降伏しており、再び扇谷上杉家臣となっている。しかし、北条氏は攻略の手を緩めず、今度はかつての城主の一族渋江三郎と謀って翌年に城を攻囲し、2月6日に城は落城した。

岩槻城鍛冶郭桝形虎口

岩槻城新郭と鍛冶郭の間の空堀と土塁

 この後、敗れた資頼は、一旦は石戸城へ退いたものの、享禄4年(1531)9月に挽回を図って岩槻城へ攻め寄せ、渋江三郎を討死させて城を奪回している。これにより、以降の岩槻城は、岩槻太田氏の本城となった。

 資頼の子資顕の頃になると、北条氏の勢いが強まったことから、資頼は北条氏への傾斜を強め、天文15年(1546)の河越夜戦での扇谷上杉朝定の討死によって扇谷上杉家が断絶したこともあり、北条家臣となっている。一方、資顕の弟資正は、反北条の旗を掲げて兄と対立し、翌同16年(1547)末の兄の死後は、当主不在となっていた岩槻城を陥落させ、実力で家督を継いだ。しかし、翌年には北条軍に城を囲まれて降伏し、北条氏に従ったという。

 資正は、その後は北条氏に従って各地に出陣しているが、北条氏も、扇谷上杉氏の家宰であった太田家を尊重し、北条氏の庇護下にあった古河公方足利家の家臣として遇したほか、子の資房(氏資)の室に北条氏康の娘が嫁ぐなど、厚遇している。しかし、永禄3年(1560)に長尾景虎(上杉謙信)が山内上杉憲政の要請で関東に出陣して来ると、他の諸豪族と同様に、資正は上杉氏に臣従した。

岩槻城新郭内部

岩槻城新郭付近の堀底道

 上杉軍の攻勢が落ち着くと、寝返った資正に対し、氏康はその支城であった武蔵松山城に攻め寄せるのだが、この時、重厚な包囲で連絡を遮断していたにもかかわらず、資正が岩槻城から後詰として早々に現れ、北条軍を撃退したという話が伝わる。これは、資正が多くの犬を養っており、その犬が伝令の役目を果たしたといい、日本における軍用犬活用の最初の例という。

 しかし、武蔵松山城が長期に渡る攻城戦の末に永禄6年(1563)に陥落すると、当然ながら岩槻城が次の攻撃目標となり、謙信の要請で資正の救援に動いた里見氏が国府台に陣取り、これを阻止しようとする北条氏との間で翌年2月に第二次国府台合戦が起こる。

 この合戦には、資正も参陣していたとされるが、結果は里見勢の大敗となり、資正も里見勢と共に上総へと落ち延びたようだ。そして、5月なってようやく酒井胤治の協力で岩槻城に帰還することができたのだが、7月に資正が里見氏との会合のために外出した隙に、資正の嫡子資房が岩槻城を占拠して北条氏に帰順し、資正はそのまま帰城できなくなってしまう。

 一説には、資正が、親北条であった資房を遠ざけ、次男の政景を後嗣にしようとしたために起こったともいわれ、翌年5月に資房出陣の隙を衝いて城の奪還を図るも成功せず、その後も岩槻城に復帰することはできなかった。

岩槻城の別名である白鶴城址

数少ない岩槻城の建物である城門

 こうして強引に岩槻城主となり、氏資と改名した資房であったが、城主であった期間は短く、永禄10年(1567)には上総で討死してしまい、北条氏政の子国増丸、その早世後は同じく氏房が、氏資の娘を娶って家を継承している。また、岩槻城も、北条一門の城として重要視されるようになり、総勢約5千の兵が常駐していたという。

 天正18年(1590)の小田原の役では、氏房は主力を率いて小田原城に籠城したため、附家老であった伊達房実が兵2千を指揮して籠城し、半数が死傷するほど奮戦したが、攻城軍は浅野長政率いる2万の大軍であり、衆寡敵せず開城降伏した。

 戦後、北条旧領が家康に与えられると、高力清長が2万石で入城し、以降は譜代が入る城となる。清長の孫忠房の後は、青山忠俊、阿部正次と引き継がれ、この正次の孫の正春の時代が11万5千石と最も高禄であった。正春の後は、甥の正邦に続いて板倉重種、戸田忠昌、藤井松平忠周が藩主となり、小笠原氏、長井氏、大岡氏と続いて維新を迎えているが、幕末には本丸が焼失するなどしている。

 城は、築城当時の荒川であった綾瀬川と、星川の流れである元荒川に挟まれた大宮台地の支台にあり、当時は元荒川の流路が台地を北西から東まで囲うように湾曲していた。荒川が戦国時代末期に元荒川の流路に移された後は、流量の増加によって直下の元荒川に由来する防御力が増したと思われる。

岩槻城解説板

岩槻城縄張図

 城の縄張は、方形に近い本丸の西に南北に細長い二ノ丸と竹沢郭、本丸の北に竹束郭、御茶屋郭、その北東に天神郭を構え、本丸の南西に樹木屋敷、その先に三ノ丸があった。これらは水堀で区画され、これら主郭の南東から西にかけては広大な沼が囲っているが、沼に竹束を埋めて築城したという伝説は、発掘調査から否定されており、この沼は人工のものということになる。

 このほかには、三ノ丸の南西に馬出のある大手門を構え、大手門の外側には主郭部の北西に新正寺郭、南東に新郭と鍛冶郭があった。城下町は大手門の南西側にあり、城下町の外縁には、凸型の大構と呼ばれる総構の土塁が築かれ、その一部は今も残っているという。

 維新後、城は明治4年(1871)の廃藩置県で機能が失われ、同6年(1873)の廃城令で正式に廃城となった後、開発の波に飲まれた。このため、新郭と鍛冶郭と呼ばれる一角が公園として残っているほかは、本丸を含む主郭部は全くの住宅地となり、残念ながら遺構は残存していないのだが、公園内には、主郭部を囲っていた沼の一部が復元されているほか、新郭や鍛冶郭は北条氏による改修が確認されており、北条氏特有の規模感で迫力があった。とは言え、歴史上有名な城だけに、複雑な構造の主郭部が全く残っていないのは、やはり残念である。

 

最終訪問日:2019/5/13

 

 

すぐ近くの国道16号線は物凄い交通量でしたが、台地に入ると閑静な城址公園で、落ち着いて散策できました。

城の沼の一部が残されている公園は、良い雰囲気でしたが、新郭と鍛冶郭しか残っていないのは、やっぱり残念でしたね。

主郭部の痕跡を求めて住宅地を歩き回りましたが、こちらも収獲無しでした。