Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

雉岡城

 雉岡や八幡山の名から解るように、緩やかな独立丘陵に築かれた平山城で、雉ヶ岡城とも書かれる。

 城が築城されたと伝わっているのは、寛正年間(1461.2-66)で、赤松庶流の出で山内上杉顕定の家臣だった夏目定基が築いたという。また、山内上杉氏の居城として築かれたが、手狭であったため、平井城に在った定基が城主となり、顕定が平井城に入ったと「新編武蔵風土記稿」にある。

 ただ、城跡からの出土物には古い時代のものがある事や、鎌倉時代の「宴曲抄」の中の「善光寺修行」に、児玉とは別に雉が岡の地名が出てくる事から、当時の鎌倉街道上道沿いに位置し、築城以前より児玉党などの在地豪族の居館として使われていたようだ。

 城が築かれた頃の状況としては、享徳3年12月(1455.1)に鎌倉公方足利成氏関東管領山内上杉憲忠を謀殺した事から始まる享徳の乱の最中で、成氏に対抗した上杉勢は、小山川沿いの五十子に陣城を構えていた。しかし、憲忠の弟で関東管領を継いでいた房顕は、寛正7年(1466)にこの五十子陣で陣没してしまい、越後上杉家から顕定が後継として迎えられた頃である。つまり、築城のきっかけは、代替わりによる刷新だったのだろう。

雉岡城址

雉岡城南ノ郭に突出している角馬出

 雉岡城は、五十子陣から南西2里強の距離にあり、顕定が入ったという平井城からは南東2里半の場所にある上、鎌倉街道にも面しており、中継拠点としては抜群の位置に在る。上杉氏に叛いた長尾景春によって、文明9年(1477)に五十子陣が陥落した後も、位置関係から、平井城の支城として機能したようだ。

 ただ、雉岡城自体のこの頃の事績はあまりはっきりとせず、伝わるのは、定基から子定盛が受け継いだという程度である。

 その後、天文15年(1546)の河越夜戦で足利・山内上杉・扇谷上杉連合軍に北条氏が勝利すると、関東は一気に北条氏有利の状況となり、雉岡城も北条氏の支配する所となった。ただ、その時期は不明確で、山内上杉家臣で南の長瀞の領主藤田重利(康邦)が天文18年(1549)に北条氏に臣従していることと、山内上杉憲政の居城平井城が同21年(1552)に落城していることから、恐らくその間の出来事と思われる。

雉岡城本丸東側の土塁

雉岡城南ノ郭縁辺の土塁

 北条氏の城となった後、雉岡城がどのように運用されていたのかは詳らかではないが、北関東の重要拠点であった鉢形城から3里弱の距離であり、やはり鎌倉街道を押さえるための支城として機能したのだろう。

 その後、永禄3年(1560)に憲政の要請によって越後から長尾景虎(上杉謙信)が越山してくると、北条方にあった諸城は雪崩を打って上杉方に味方しており、雉岡城も上杉方の城になったと推測されるが、鉢形城に入った北条氏邦が城を奪回したという。また、上野との国境も近いため、西上野を領国化していた武田氏との同盟が切れた永禄11年(1568)以降は、武田氏との争奪の地にもなったようだ。

 その後、北条氏の支配が上野まで及び、北武蔵の支配も安定すると、城代として横地忠春が任ぜられ、この時代に大改修があったという。

雉岡城東ノ郭南側の水堀

雉岡城南ノ郭馬出近くの空堀にある夜泣き石

 天正18年(1590)の小田原の役では、中山道から北関東へ入った前田利家ら北国勢によって攻囲され、落城している。この時、忠春は攻撃軍の多さに驚き、籠城を諦めて鉢形城へ逃れたともいう。

 戦後、北条氏の旧領を与えられた家康は、雉岡城主として1万石を竹谷松平家清に与え、家清は八幡山城と称したが、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の翌年に三河吉田へと転封となり、廃城となった。

 城は、東に鎌倉街道上道を押さえる要衝の地にあり、北には女堀川が流れ、北の防御線となっていたのだろう。

 縄張全体としては、ほぼ長方形の形で南北に長く、北から、突出する小規模の馬出郭に続き、三ノ丸(北ノ郭)、二ノ丸(二ノ郭)、本丸(本郭)と並び、本丸と二ノ丸の東にはほうき郭(東ノ郭)という区画がある。本丸の南に空堀を介して郭が続き、その南には角馬出を経て大手のある南ノ郭が繋がっていた。大手は南に開けられており、現在の公園入口は、後世に土塁が開削されたもののようだ。

雉岡城解説板

雉岡城南ノ郭に残る大手門跡

 縄張図から見ると、最初期の城は、本丸と二ノ丸と本丸の南の郭の3つ削平地だけだったように思える。これらの外側の郭には、それぞれの虎口の動線を強化するために拡張された雰囲気が強く、拡張は北条時代の改修だろうか。

 現地の説明板と縄張図でやや内容が異なるのだが、現在は本丸の大部分が中学校、二ノ丸と三ノ丸が高校の敷地となっており、本丸の東側の土塁とほうき郭の一部、そして大手の郭が公園となっている。また、本丸と大手の郭の間の空堀には夜泣き石があるほか、その先は往時と同様に水堀の姿を残しており、角馬出から本丸土塁上の金毘羅神社空堀、水堀にかけての一帯は、古城の趣が濃厚に漂っていた。土塁や堀が明確に残っているだけに、主郭部の喪失が惜しまれる城である。

 

最終訪問日:2019/5/12

 

 

それほど期待せずに訪れたお城だったんですが、お城の雰囲気は十分でしたね。

後世の石垣で固められたとは言え、角馬出がとてもはっきりしていましたし、空堀や水堀も立派。

北条氏らしい土のお城という感じでした。