天霧城は、室町幕府の管領であった細川氏の重臣で、讃岐守護代を務めた香川氏の居城、詰城であった。
この香川氏の出自には、不明なところが多い。
大まかには、永保3年(1083)から始まる後三年の役に活躍した桓武平氏鎌倉景政の末裔というのが通説で、その孫か曾孫とされる家政の時に、相模国高座郡香川村に住んで香川を名乗り、後に細川氏に従って讃岐に入部したということであるが、安芸に分出した香川氏の分かれという説や、香川氏と同じ鎌倉党であった越後長尾氏の流れという説もあり、讃岐に入部した人物も景房や景則といった複数の説がある。そのほかにも、讃岐綾君の祖武貝児王の子孫という説があるという。
いずれにせよ、管領細川氏が讃岐支配を強化するため、有力な被官であった香川氏を入部させたと思われ、入部後は西讃岐の守護代となり、応仁元年(1467)に応仁の乱を起こした細川勝元の時には、細川四天王のひとりとして和景、元明、景明などの名が出てくる。
また、この頃は海に近い多度津城を居城とし、天霧城を非常時の詰城としていたようだが、戦乱が激しくなるにつれ、より防御力の高い天霧城へと居を移したようだ。
その後、勝元の子政元が永正4年(1507)に謀殺され、その養子らによって両細川の乱という後継者争いが始まると、その一方の養子である澄元が阿波細川家の出身であったことから、澄元を支援する阿波細川家の家臣三好氏が勢力を伸ばすのだが、讃岐の諸氏の対応は分かれた。
香川氏は、畿内で活動していた満景が内訌の際に討死したこともあってか、周防の大内義興が前将軍足利義尹(義稙)を擁立して上洛した際には、跡を継いだ元景が、義興の呼びかけに応じてこれに従っている。また、香西氏や寒川氏などと共に、十河氏と結ぶ三好氏に対抗したようだ。
その後、一度衰退した三好氏が再び長慶の代に勢力を盛り返し、讃岐への介入を深めると、元景の子之景は、大内氏を実質的に継承した毛利氏と結んで対抗したが、永禄年6年(1563)に、三好勢による西讃岐への侵攻があり、城外で小競り合いはあったものの、大きな衝突がないまま、持久戦の末に和睦し、三好氏に従うこととなった。
ただ、之景は永禄11年(1568)頃に備中の神島に在ったと見られることから、この和睦の後、同8年(1565)頃からしばらくは、三好勢に城が奪われていたようだ。
この後、三好氏は、長慶、之虎、十河一存といった優秀な兄弟が死去し、松永久秀の台頭や久秀と三好三人衆の対立、織田信長の上洛に伴う畿内の拠点喪失などで衰退したため、天霧城に戻った之景は、ほぼ独立した状態となり、隣接する奈良氏の領地を蚕食し、天正4年(1576)には信長に謁見して臣従している。この時、偏諱を受けて信景に名を変えたというが、これは之景とは別人であったともいわれ、之景の事かどうかは定かではない。
また、一説には、天正5年(1577)頃まで神島に在り、同年の毛利氏の侵攻前後に讃岐に戻ったという説もあるという。
いずれにせよ、之景が織田氏に属した期間は短く、天正6年(1578)から長宗我部元親の軍が讃岐に侵入するようになり、藤目城などを落とすと、その勧告に従って翌年に臣従し、親政とも親和とも書かれる元親の次男を養子に迎えている。
その後、元親の讃岐統一に協力して功を挙げているが、天正13年(1585)の四国征伐で元親が秀吉に降伏すると、土佐一国に戻された元親に従って之景と親和の父子も土佐へ去り、天霧城は廃城となった。
天霧城への登り口は、昔は複数あったようだが、現在は八十八ヶ所霊場のひとつ、弥谷寺からの道が分かりやすい。弥谷寺の階段から途中で右手に行き、香川家代々の墓を過ぎて少し階段を上がると、山へ入る道が右手に見える。この道をしばらく行くと隠し砦という出丸があり、その周辺には人工的な削平地が幾つか見られた。この辺りからしばらく下った後、少し登るとようやく城跡の主郭部に到着する。
城の主郭部は、直線的に本丸、二ノ丸、三ノ丸、三ノ丸の下段と大きく4つの郭があり、本丸には物見台があったという少し高い場所もあった。ただ、残念ながら眺望は開けていない。また、三ノ丸から北側の険しい道には井戸跡もあり、井戸は今も水を湛えていた。
城への道は、お遍路道になっているようで、お遍路道が白方へ分岐するまではそこそこ広い道なのだが、下は雨水に削られた悪路で、苔もあって滑りやすい。その先に分岐する場所があり、平坦な獣道を進むと井戸が見え、さらに三ノ丸の下段、そして三ノ丸へと登ることができ、石塁も確認できる。ただ、この辺りはほぼ直登になるため、足に自信のない人は、素直に本道を選んだほうが無難だろう。
一方、主郭である本丸から三ノ丸下段までの4つの郭は、木も切られて整備されており、それまでの悪路が嘘のように散策しやすかった。恐らくは、城跡保存会の方の尽力で整備されていると思われ、長い道を歩いて城跡のまで整備しに来られている事を思うと、頭が下がる。
最終訪問日:2006/5/25
弥谷寺に着いた時、その山門近くに階段530段余という字を見つけ、一瞬帰ろうかとも思いましたが、そうそう来ることができる所でもないので、気合を入れて階段と山道を進みました。
30分ほど進むと主郭部分へ登る分岐があり、木に巻きつけてあった錆びた案内板にはかすかに井戸の文字と、「迷路のよう」という言葉が読み取れましたが、何も考えず歩きやすい獣道を進んでいくと、途中からほとんど道が無くなり、やがて井戸が見えました。
どうやら「迷路のよう」な道を進んだ模様。
腕ぐらいの丸太が道に直交して数本置かれていて、本道はこちらではないという意味だったのを後で悟りましたが、そのようにしてあるところを見ると、間違える人も多いのでしょうね。
取りあえずは、どちらの道でも城に辿り着くことは可能です笑