Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

菖蒲城

あやめ園の中に建つ菖蒲城址

 足利成氏が支城網のひとつとして築かせた平城。

 築城当時の状況としては、享徳3年12月(1455.1)に鎌倉公方であった成氏が関東管領山内上杉憲忠を謀殺したことによって始まった享徳の乱の最中で、上杉氏を支援する幕府の命によって、翌年6月に今川勢が鎌倉を制圧しており、鎌倉を諦めた成氏は、古河を新たな本拠とした直後であった。

 「新編武蔵風土記稿」によれば、成氏が康正2年(1456)に金田則綱に命じて築かせ、竣工が5月5日の菖蒲の節句であったことから、城名にしたという。菖蒲城の築城は、前述のように新たな本拠である古河城を中心とした支城網整備の一環であり、古河に入った時期と菖蒲城の竣工の時期を考えると、僅か1年弱しかなく、かなり急いで築かれたようだ。

菖蒲城跡に植えられたあやめ

 築城者の則綱は、系図類によると近江源氏佐々木氏流とあるが、その内容は信憑性が低く、実際にどのような系統であったかは不明である。事績もあまり伝わっておらず、則綱の子孫は、概ね足利家臣として終始したようだ。

 築城後の菖蒲城は、大永5年(1525)3月に、足利高基の子で山内上杉憲房の養子となっていた憲寛が、北条方であった菖蒲城を攻めた事が見える。この頃の城主は則綱の孫定綱で、この年の2月に岩槻城が北条氏によって落城しており、この前後に菖蒲城も北条方に転じていたのだろう。

 攻城の結果としては、忍城の渋江氏の援軍を得て撃退したとも、落城したとも伝わるが、8月には白子原で上杉勢が北条軍を破っており、同年中に北武蔵は一旦は上杉氏が掌握したと思われる。

 天文15年(1546)の河越夜戦を経て、足利氏が北条氏の庇護下に入ると、金田氏は実質的に北条家臣と化したようだ。実際、北条氏と上杉氏の争いの中で、天正2年(1574)には上杉謙信に城下を焼討ちされたことが見える。

移築されている栢間陣屋の裏門

 また、則綱の5代後の秀綱の時には、忍城の成田氏に属していたという。恐らく、同じ北条陣営の成田氏の寄騎的な立場であったのだろう。

 天正18年(1590)の小田原の役の際には、他の諸城と同じく主力は城におらず、早々に落城したようで、城はそのまま廃城となった。

 当時の地勢がどこまで同じかは分らないが、城の周辺には、北に星川、南に野通川が東南へ流れており、この2つの川を防御線としていたのだろう。また、大きく見れば荒川と利根川に挟まれた地域で、暴れ川が残した沼沢と、それを開墾した深田に囲まれていたと思われ、沼城に近かったのではないだろうか。

 現在の城跡は、遺構と呼べるものが全く無く、菖蒲の名にちなんだ菖蒲城趾あやめ園となっている。その一角に立派な城址碑が建ち、あやめ園の入口には、後に南西の栢間に置かれた内藤氏の陣屋の裏門が移築されており、僅ではあるが、城がこの地にあったことだけは感じられた。

栢間陣屋を築いた内藤

 

最終訪問日:2019/5/13

 

 

見渡す限りの農地の一角にあやめが植えられた一角があるんですが、城跡と言われなければ分らないですね。

それほど開墾され尽くしていました。

菖蒲城とは直接関係無いんですが、陣屋の裏門がちょうどいいランドマークになっていました。