Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

大胡城

 平安時代末期の大胡周辺では、室町幕府を開いた足利氏とは別系の、藤原秀郷系足利氏の庶流である大胡氏が拠っていた。ただ、この頃の居館は現在の大胡城には無く、他の場所にあったと推測されている。

 大胡氏は、足利成行の子重俊を祖とし、天仁元年(1108)の浅間山の大噴火によって荒廃していたと思われる大胡に入り、再開発を行い、地名を名乗ったという。宗家の足利氏は、当時は本貫の足利ではなく、現在の伊勢崎市周辺である那波郡を本拠としていたようで、大胡とは近かった。

 その本家の足利氏は、源平の争乱の際に平家側に付いたことから、頼朝に滅ぼされてしまうのだが、大胡氏は、治承4年(1180)の頼朝の挙兵直後から味方し、鎌倉時代御家人として生き残っている。

 だが、元弘元年(1331)に始まる元弘の乱から鎌倉幕府滅亡への一連の動乱では、鎌倉幕府に味方して没落したとも、南北朝期に惣領が没落して一族が継いだともいわれており、南北朝時代に大胡上総入道跡という領地分のやり取りがある事を見ても、その頃に大胡氏に困難があったことは確かなようだ。

2段に分かれている大胡城本丸

大胡城本丸上段

 これ以降の大胡氏の事跡は断片的で、文明元年(1469)に河越城で行われた連歌会に大胡修茂の名が見えるが、同時代には岩松家の横瀬国繁に属した益田修茂が大胡に在ったとする史料もあり、同一名であることから益田系大胡氏に入れ替わっていたのかもしれない。別の伝承にも、国繁が大胡城を落とし、家臣の益田氏を城に据えたという話があるという。

 ただ、これらは断片的な情報でしかなく、決め手には欠けるのだが、古くからの大胡氏系か新たな益田氏系かは横に置くとして、大胡を称する修茂という武将が城に在り、横瀬氏の影響下にあったというのは、朧気ながら推測できるだろうか。ちなみに、大胡町史によれば、修茂の2代前の行綱が大胡城を築城したとしている。

 その後の大胡城については、やはり断片的で、修茂の子茂政の時に那波氏の攻勢に敗れ、新田に去ったという話や、大胡氏系の重行が横瀬氏の圧迫に耐えかねて天文10年(1541)に武蔵牛込に移り、牛込氏を称したという話があるほか、大胡氏の庶流である上泉秀綱(信綱)が大胡城に在ったという伝承もあるようだ。

大胡城本丸南側の土塁

大胡城本丸と二ノ丸の間の空堀

 史実としては、永禄4年(1561)に上杉政虎(謙信)が作った関東幕注文に厩橋衆として大胡の名が見え、どの系統かは不明ではあるものの、大胡を称する武将が実在したのは確かで、大胡城が厩橋城の支城となっていたのはほぼ間違いない。

 その後、いつの頃からか、大胡城は由良(横瀬)氏の支配下に入ったとされるが、時期的には、永禄3年(1560)の謙信の関東入り以降の話だろうか。由良成繁は、上杉憲政の越後落ちの後も北条氏に対して抵抗しており、その恩賞という意味があったのかもしれない。

 だが、北条氏の圧迫が強くなる中で、やがて抗し切れなくなり、成繁は永禄9年(1566)に北条側へと寝返った。この年は、西上野の雄であった箕輪城の長野氏が滅んだ年でもあり、武田・北条連合軍の攻勢の波に、上野の上杉勢は飲み込まれつつあった頃である。

 謙信は、この流れに対し、大胡城を攻略して城を厩橋城代を務める重臣北条高広に預けたのだが、この高広も翌年には北条側に寝返ってしまい、永禄12年(1569)の相越同盟締結に伴う高広の帰参までは、北条側の城として機能した。

大胡城本丸から深い水堀を挟んだ向かいにある北城の幼稚園

大胡城二ノ丸南側の桝形と奥に見える水ノ手門

 高広は、帰参後もそのまま厩橋城の城代を務め、天正2年(1574)に隠居して大胡城に入り、厩橋城は嫡子景広に譲ったが、同6年(1578)の謙信死後の家督争いである御館の乱で父子共々景虎側に与し、景広は討死、高広も敗れて厩橋城に戻り、武田勝頼の圧迫に臣従したという。

 その後の大胡城の動向は不明となるが、引き続き厩橋城の支城として活用されたと見られ、厩橋城がそうであったように、天正10年(1582)の武田氏滅亡後は滝川一益支配下に、同年6月の本能寺の変後は北条氏の支配下にあったと思われる。そして、天正13年(1585)には、大胡氏の裔と思われる大胡高繁が城主になったという。

 天正18年(1590)の小田原の役後、旧北条領に家康が入封したため、大胡城には牧野康成が2万石で入り、この牧野氏時代に、城も近世城郭へと改修されている。しかし、元和2年(1616)には嫡子忠成が越後長峰へと移り、大胡領は酒井氏の厩橋藩に吸収されて城代が置かれ、酒井氏が姫路転封となった寛延2年(1749)に廃城となった。

 ちなみに、忠成移封の際の話として、忠成は長峰に城と城下町を造営できるまで大胡城に滞在したという伝承があり、その伝承では、2年後に長峰から長岡に再移封となったため、忠成は大胡から直接長岡に入ったという。

大胡城解説板

大胡城の東の天然の堀となっていた荒砥川

 城は、川沿いの南北に細長い丘陵を区切って郭を造り出している平山城で、全体としては連郭式、本丸と二ノ丸に関しては梯郭式となっている城である。具体的には、北から順に出城的な近戸郭、北城、本丸と二ノ丸の主郭部、三ノ丸、南郭と並ぶ。また、主郭部の西側の低地に西郭があった。

 これら、丘陵部の各郭の間には小流を利用した深い堀が穿たれ、丘陵の川側は崖であり、規模や高さの割に堅固な構えだったようだ。ちなみに、初期の大胡城は近戸郭のみであったとも、本丸と二ノ丸の主郭部のみであったともいう。

 大胡市街を流れる荒砥川沿いの県道に、城への小さな案内表示があり、曲がるとすぐに大胡城の城域である。駐車場となっている二ノ丸からは、本丸の空堀や二ノ丸の桝形が見え、心地よい春の風が新緑を撫でていた。

 城の見所としては、上の箇所に加え、水ノ手門跡や二ノ丸と北郭の間の堀が印象的だ。特に堀はかなりの高さと急峻さがあり、一見の価値がある。ただし、堀向こうの北城は幼稚園の敷地となっており、散策はできない。

 

最終訪問日:2014/5/10

 

 

近戸郭や、市街地化した三ノ丸、南郭までは見て回る時間が無かったんですが、主郭部は下草も刈られて散策し易く、かなり心地よく歩けた城でした。

お城を見て回る人も数人いて、小さな町ですが、意外と知られたお城なんでしょうね。

確かに、堀を中心とした縄張の残り具合はかなり良い感じでした。