Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

金山城 (新田金山城)

 新田氏流の岩松家純が、応仁3年(1469)に築城したという山城で、関東七名城のひとつに数えられている。

 新田氏は、源八幡太郎義家の孫義重が上野国に土着して広大な土地を開発し、新田を称したのが始まりで、義重は、下野国に土着した義重の弟足利義康の孫である義純を愛し、嫡子義兼の娘婿とした。そして、義純は上野国新田郡岩松郷に住し、地名を名乗ったのが岩松氏の始まりである。

 新田、足利両氏は、絶えた源氏嫡流に最も近い血筋として、鎌倉幕府では有力な御家人であったが、鎌倉幕府滅亡の際にはそろって後醍醐天皇側に与した。しかし、武家の不満が高まると、足利尊氏がそれを代表するようになったのに対し、新田義貞はあくまで後醍醐天皇側に味方し続けたため、南北朝時代に新田一族はほとんど滅ぼされている。

 しかしながら岩松氏は、新田一族ながら始祖の関係も影響したのか、一貫して足利氏に味方して生き残り、やがて室町時代には、新田流の惣領と見なされるようになったようだ。

 だが、上杉氏憲(禅秀)の娘婿だった満純が、応永23年(1416)の上杉禅秀の乱に加担して翌年に処断されると、岩松氏は没落の危機に陥り、満純の甥持国が擁立され、満純の子家純は出家して上洛した。これにより、岩松氏に内訌の芽が芽生えることとなる。

 鎌倉公方足利成氏が享徳3年12月(1455.1)に関東管領山内上杉憲忠ほ謀殺したことで勃発した享徳の乱では、持国は足利方に与したが、ここで家純が幕府の意向によって関東に入ったため、岩松氏が足利方と上杉方に分裂する結果となった。

 家純は、重臣横瀬貞国・国繁の協力を得て活動し、後に持国を上杉方に寝返らせるなど、働きを示している。そして、寛正2年(1461)には、再び足利方に寝返ろうとした持国・次郎父子を謀殺したという。ただ、これには寝返りの傍証が無く、権力争いの雰囲気も漂うのだが、真相は不明である。

復元された金山城の石垣と陣屋

 この金山城の築城は、この持国らを謀殺して岩松氏を統一した少し後で、足利氏に対しての備えとして築かれたという。実際、翌々年に成氏の8千の軍勢を迎えて落城せず、70日間も耐えて撤退させている。

 ただ、この家純の時代には、持国の件以外にも、後に家純が嫡子明純を廃嫡するなど内訌が続いため、解決に功を挙げた横瀬氏の勢力が次第に大きくなった。

 やがて、家純の孫尚純が横瀬景繁と対立して隠居させられ、その子昌純が擁立されると、実権は横瀬氏へと移り、その子昌純が景繁に、その弟氏純が景繁の子泰繁に討たれると、岩松氏は完全に力を失ってしまう。さらに、氏純の子守純が泰繁の子成繁によって追放され、金山城横瀬氏の支配するところとなった。

 横瀬氏は、新田義貞の時からその家臣として名が見え、義貞の孫貞氏が横瀬氏に婿養子に入り、横瀬家を継いだという。従って、系図上は岩松氏と同じく新田流であるとされているが、室町時代横瀬氏は小野姓を称しており、武蔵七党の中で小野氏流だった横山氏や猪俣氏の末裔と見られている。

 横瀬氏は、成繁の時に将軍の御供衆となり、屋敷の所在地から由良氏を称して東上野に勢力を蓄え、独立を保ちつつも、永禄3年(1560)に長尾景虎(上杉謙信)が上杉憲政の要請で越山して関東に入るとそれに従い、同9年(1566)頃に北条氏の勢力が盛り返すと上杉を離反して北条に従った。この過程で金山城は上杉軍の攻撃を受けたが、城を守り切ったという。

 この後、三国同盟の破綻により、北条氏康は謙信との同盟を求め、成繁はその仲介役として重要な役割を果たした。しかし、この越相同盟は氏康の死と共に僅か2年後に見直され、再び金山城天正2年(1574)に大規模な上杉軍の攻撃を受けるなどしている。一説には、越相同盟を挟んで合計で6度も上杉軍に攻撃され、1度も落城しなかったという。

 その後、成繁の子国繁の頃には、武田氏と上杉氏の戦略的な活動が上野から他に移った事で、北条氏の圧力が強くなり、屈服を強いられるようになった。しかし、これを拒んだ国繁と、弟で館林城主の長尾顕長は、天正11年(1583)に厩橋城で謀られて拘束され、小田原城へと連れ去られてしまう。

金山城鳥瞰図

 しかし、城は国繁の母と家臣が結束して防衛したために陥落せず、力攻めを諦めた北条氏と翌同12年(1584)に国繁・顕長兄弟の開放を条件に開城し、由良氏は桐生城へと去り、城は北条氏の属城となった。

 以後、天正13年(1585)には宇津木氏久が在番し、同15年(1587)には清水正次の名が見え、天正18年(1590)の小田原の役の際は富岡秀高が守備しているが、豊臣軍北国勢の攻撃で落城している。そして、北条氏滅亡後は家康の領地となり、領内諸城の整理に伴って廃城となった。一方、由良氏は、なんとか牛久で5千石を賜って生き残り、江戸時代は旗本高家衆となっている。

 城は、標高223mの金山山頂の本丸を中心として、西に二ノ丸、三ノ丸、馬場、物見台、西櫓台と稜線上に続き、その先には西城と見附出丸が構えられていた。また、本丸の南には南郭と御台所郭があり、北の尾根伝いの峰には北城が設けられている。その他には八王子城、坂中城という出城があり、城跡にある鳥瞰図を見ると、周辺の峰をも巻き込んで全山城郭化された様子がよく解るだろう。

 また、地図を眺めれば、南に利根川、北東に渡良瀬川があり、大規模な城郭群に加え、地理的な優位さが堅城であったことを物語る。

 城の中心部分は、関東の山城には珍しく石垣で構築されており、石垣が発掘された時には、歴史家の中で論争が起きたというほどの、関東には珍しく大きな規模のものだ。さすが関東七名城のひとつに数えられている城である。

 廃城が早かった割に人の手があまり入らなかったらしく、石垣の保存状態が良い城だ。城跡は史跡公園として整備されているが、訪れた時はちょうど史跡公園として完成する日だったようで、比較的多くの人がいた。完成しているのは実城部分で、まだまだ工事中の場所もあり、復元部分の石垣も色が馴染んでいなかったたりするが、健在だった当時の城の雰囲気を漂わせる空間となっている。

 

最終訪問日:2001/9/30

 

 

城内では、日の池や月の池といった水之手も綺麗に復元されていました。

籠城では、水源を押さえられて開城する例が多い事を考えると、金山城の籠城の際には、これが要となって堅城振りを発揮したんでしょうね。

主郭部に水ノ手があるのは、名城の条件というのも改めて認識しました。