Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

五覧田城

五覧田城関守口の案内

 詳細な築城年代は不明だが、北条氏が古くから深沢城を本拠としていた阿久沢彦三郎に命じて築かせた城という。

 眼下の小黒川に沿って現在の利根町、そして沼田へと抜ける赤木山東麓の街道を押さえる城であった。ただし、現在は渡良瀬川沿いの国道122号線の方が主要道であるが、このルートは江戸時代の足尾銅山の隆盛によって大きくなったものであり、戦国時代は主要道ではなかったため、現在の景色との違いを頭に入れておく必要がある。

 城が築かれたのは、沼田方面との街道筋の警戒のためであり、その相手はもちろん上杉謙信であった。具体的な年代としては、上杉方であった由良氏や桐生氏が北条方に転じた永禄9年(1566)の少し後か、もしくは、同12年(1569)の相越同盟締結による上杉氏と北条氏の緊張緩和を経て、機能不全だった同盟が北条氏康の死によって破棄され、両者が再び敵対するようになる元亀2年(1571)のすぐ後だろうか。

 城の事跡が最初に見られるのは、天正2年(1574)3月で、上野における北条氏の勢力伸張に業を煮やした謙信が攻勢を掛け、深沢城などと共に五覧田城も落城している。しかし、同年9月には金山城主由良成繁が早くも奪回したという。

 この時、五覧田根小屋とあることから、街道監視の境目の城ではあるが、山城部分だけではなく、麓に居住区画も備えた城だったようだ。

 天正6年(1578)に謙信が没すると、上杉家中では、共に謙信の養子である景勝と景虎家督を巡って争うようになる。いわゆる御館の乱であるが、景虎が北条氏の出身であったため、北条氏は景虎に加担し、同盟者である武田勝頼にも救援を依頼した。

 しかし、勝頼が後に景勝側に転じたために、今度は甲相同盟が破綻してしまう。この影響で、成繁の子国繁は武田氏と結ぶ佐竹氏側に転じ、五覧田城はこれを受けた北条氏が占領して支配下に置いたようだが、天正7年(1579)5月に国繁が北条方に帰参し、城も返還されたようだ。

 この後、天正10年(1582)の武田氏の滅亡に伴って上野に織田家が進出した際には、国繁は織田家滝川一益に従っているが、同年6月の本能寺の変で一益が撤退すると、北条方へと戻った。

 しかし、同12年(1584)に城の借用問題から、北条氏が国繁とその実弟長尾顕長を小田原城で拘束すると、それぞれの居城である金山城と館林城では、兄弟の母を立てた籠城戦となり、由良氏の城であった五覧田城も、由良氏の影響下から脱して北条方に与した阿久沢氏を始めとする前原氏や目黒氏などの土豪衆に攻められ、落城している。

 その後も、同じ北条家臣となった由良氏と阿久沢氏の旧主従の間で帰属を巡る争いがあったが、北条氏の裁定で阿久沢氏が城を保持したという。そして、天正18年(1590)の小田原の役により、廃城になったと考えられている。

 城へは、渡良瀬川沿いの国道122号線を大間々方面から北東へと遡っていくと、水沼駅花輪駅のちょうど間ぐらいに他のスポットと並んで案内板が出ているのだが、表示が小さく、見落とし易いかもしれない。その案内板の所を左折した後、さらに数100m先の案内表示に従って右折し、不安がよぎるほどの急坂を登った先に山へと入る車道がある。

 訪れた時は、この車道をずっと上って行ったのだが、途中で倒木があり、バイクでは越えられなかったため、時間の関係もあって登城は断念した。

 調べたところによると、この登山口は関守登山口で、城跡に最も近くまで車で行けるのは、ここから更に北東に行った先にある戸屋沢橋登山口のようだ。日光へ抜ける際に確認したが、国道122号線のもう少し日光側の場所に、斜めに山へ入っていく道がある分岐地点にも案内表示があり、戸屋沢橋登山口へは、そちらからの方が分かりやすそうだった。

 

最終訪問日:2014/5/10

 

 

神戸から遠いだけに、なかなか来る機会が無さそうではあるんですが、足尾銅山にはいつか行きたいので、その時にリベンジしたいですね。

しかし、漫画かと思うほど、典型的な道を塞ぐ倒木でした笑