土佐七雄のひとつとして姫野々城を本拠としていた、津野氏の支城であったという。だが、築廃城時期や城主などの詳細は判っていない。
津野氏は、その出自や系図、土佐入国の経緯など、不明な点が多く、藤原仲平の子経高を初代とする説が一般的だが、経高が津野と名乗る以前に山内と称していたことから、山内氏の流れともいわれている。
いずれにせよ、平安時代から高岡郡津野荘を地盤としていた古い家で、代々好学で文化的な素養を持っていたという。
しかし、戦国時代には、中村の一条房基が勢力を伸張させるに伴って劣勢となり、天文年間(1532-55)の中頃には一条氏に臣従した。
さらに、長宗我部氏が長岡郡から興り、勢力を西へ伸ばすと、長宗我部氏の圧力によって親一条派と親長宗我部派に家中が分裂してしまう。そして、親一条派だった当主定勝が、家臣らによって元亀2年(1571)頃に追われて子の勝興が擁立され、後に長宗我部元親の三男親忠を養嗣子として迎え、長宗我部氏に完全に吸収された。
親忠は、津野氏の居城であった姫野々城ではなく、土佐の主要な港湾であった須崎の湊を押さえるこの須崎に本拠を置いたようで、その家老を務めた山内右衛門大夫と共に、麓に居館と土居を築いている。これにより、須崎城は、恐らく詰城として機能していたのだろう。
その後、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後に土佐へ入部した山内一豊による支城の再編により、須崎城は廃城になったと思われる。
城山の周囲を回って登り口を発見し、徒歩で登ると、中腹に城山公園が整備されていたが、これは郭跡を整備したものだろうか。この公園からさらに奥へ道は続き、祀られていた小さな社の後ろに主郭へ続くであろう道がある様子だったが、道が曖昧な上に台風直後ということもあって、倒木などで進める状況ではなく、登城は断念せざるを得なかった。
最終訪問日:2004/9/10
台風直後の山城は、倒木あり、土砂崩れありで、辿り着けない場合もしばしばあるんですが、須崎城もそのパターンでしたね。
土佐のお城の到達率が悪いので、まとめてリベンジしたいものです。