Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

長浜城 (土佐)

南麓の秦神社の境内に建つ解説板

 長浜城の南で繰り広げられた戸ノ本の合戦は、長宗我部元親の初陣として知られているが、その前哨戦である長浜城攻防戦で知られる山城。具体的な築城時期は不明だが、本山氏によって築かれ、その家臣大窪美作守が城主だったという。

 長浜城は、永禄3年(1560)5月26日に長宗我部国親によって奇襲され、落城しているが、この攻防戦には、伝承として次のような話が伝わっている。

 長浜城から浦戸湾を挟んだ対岸の種崎城には、長宗我部氏の家臣として福留右馬允という人物がおり、築城工事を得意としていたが、火を出した罪によって追放され、長浜城の大窪美作守に仕えていた。

 仇敵である本山氏を討つことを考えていた国親は、種﨑城へと運ばれていた兵糧が本山方に奪われたことを知ると、本山氏と断交することを決意して長浜城の攻略を企て、旧臣であった右馬允に寝返りを持ち掛けたという。

 その頃、長浜城の城門の工事を任されていた右馬允は、帰参の誘いを喜び、城門に細工を施した。そして、夜の雨の中、海を船で渡った長宗我部勢は、その手引きによって長浜城を奇襲し、攻略したという。その夜襲の際に使った北西の谷は、夜討ヶ谷と呼ばれたと伝わっている。

 こうして長浜城は陥落したが、城を脱出した美作守は、朝倉城の主君本山茂辰を頼り、翌27日に茂辰は2千5百の兵を率いて長浜城の奪還に動き出す。対する国親は、今の雪蹊寺である慶雲寺に千の兵を集め、長浜から戸ノ本周辺で本山勢と激突した。

 兵力に劣る長宗我部勢であったが、初陣であった元親・親貞兄弟の活躍もあって勝利し、敗れた茂辰は浦戸城へ逃げ込んだ。長宗我部勢は攻勢の手を緩めず、浦戸城を包囲したが、国親が体調を崩したため、兵を引いたという。

 包囲を解かれたため、茂辰は浦戸城から朝倉城へと帰還することができたが、朝倉城と浦戸城の間にある長浜城や潮江城が押さえられたため、孤立する浦戸城はそのまま放棄されたようだ。本山軍の撤兵後、長宗我部氏が浦戸城を接収し、重要性の薄れた長浜城は廃城になったという。

 長浜城は、北の潮江城と南東の岬突端の浦戸城を連携する拠点で、前述のように長宗我部氏と本山氏の勢力の境界を守る城だった。対抗する長宗我部氏の拠点は、対岸の種﨑千松公園にあった種﨑城であり、地図上の位置関係を見てみると、東から突き出した種﨑城に対し、長浜城と浦戸城がいかに的確な位置にあるかが解る。

 現在の長浜城は、山の北側が住宅地として開発されてしまっているほか、残った南側も人の手が入っておらず、かつては竪堀が2筋残っていたとはいうものの、山へ入る登山道も無く自然に還っており、遺構の確認は困難のようだ。僅かに秦神社の境内にある案内板だけが、かつての城の存在を示すのみである。

 

最終訪問日:2019/11/11

 

 

神社とか寺の裏に後背の山へ入る道があるというのは、城巡りでは王道パターンなんですが、ぐるりと見て周っても、そんな道は無さそうでした。

登るとしたら、本気装備で直登パターンでしょうか。

かなり気合が要りますね。