Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

箕輪城

 長野氏が居城とした平山城で、築城は信玄を撃退したことで著名な業正の祖父尚業によって永正年間(1504-21)に築かれたと一般的にいわれているが、業正の父憲業が築いたとも、尚業以前から居していたともいう。

 上野の守護代を務め、山内上杉家の勢力衰えた頃には西上野の盟主たる立場であった割に、長野氏に関する史料は少なく、在原業平が祖とされる以外は系譜もあやふやで、尚業を業尚としていたり、業正の子業盛を氏業としていたり、業正自身の父も尚業や信業とされていたりと、史料によって差異が大きい。比較的勢力が増して名の通った時期のものでもこの程度であることから、それ以前の事跡は不確定要素が大きく、もはや伝承に近いのだろう。

 関東管領上杉憲政が、北条氏の圧迫に耐えかねて天文21年(1552)かその数年後、あるいは永禄元年(1558)に越後に逃れた後、上野は北条氏の草刈り場と化して行くのだが、山内上杉家重臣だった業正は、周辺諸領主に娘達を嫁がせて血縁的、地縁的な連合勢力の盟主となっており、この城を中心として、西上野に50ともいわれる支城網を築き上げていた。

 そして、この支城網を駆使し、伝承では、北条氏の侵入や、弘治3年(1557)からの武田信玄の6度にわたる攻撃を跳ね返したとされる。しかし、永禄4年(1561)に業正が没すると、信玄は小躍りして上野攻略に取り掛かり、調略によって連合は徐々に瓦解して行った。

箕輪城本丸

 やがて、子の業盛は箕輪城に逼塞させられ、籠城戦の末、永禄9年(1566)に業盛の自刃によって城は落城し、長野氏は滅んだ。ただし、この落城には永禄6年(1563)の説もある。

 上記は、巷間に伝わってきた伝承であるが、業正と信玄については、史実としての信玄の西上野侵攻が、永禄3年(1560)から翌年に掛けて以降というのが明らかになってきており、両者の緩衝地帯である安中氏が永禄5年(1562)に武田氏に服属していることから、援軍派遣などはあったにしても、信玄と業正は、直接戦っていないという可能性が高いという。

 また、憲政の越後落ちの頃は、業正はやや独立的な動きをしていたようで、戦国大名化していく在地土豪らしい一面が窺える。これらから、業正が一定の勢力を築き、信玄も一目置いていたのは間違いないが、上杉家の忠臣というイメージや、信玄撃退の説話などという、以前の人物像とは違う姿が近年では浮かび上がってきているようだ。

 箕輪城落城前後の上野を巡る情勢がどうなっていたかと、この箕輪城落城前の永禄3年(1560)には、管領家名跡を継いだ越後の上杉政虎(謙信)が越山して関東に侵攻し、業正を始めとする上杉旧臣の糾合に成功したものの、それは一時的なもので、以降の上野は、謙信と信玄、そして相模の北条氏康という、俗に関東三国志といわれる三氏の争奪の地となっていた。

箕輪城復元想像図

 このような情勢の中、信濃から侵入して西上野に足掛かりを築いた信玄は、東進して箕輪城を攻略した後、城を西上野の支配、兵站拠点として重要視し、武田四天王のひとりである内藤昌豊を入城させている。この武将の名を見れば、箕輪城が武田氏にとっていかに重要な城だったかがよく解るだろう。

 その後、昌豊が天正3年(1575)の長篠の合戦で討死すると、子の昌月(昌武)が城主となったが、天正10年(1582)3月に武田氏は信長によって滅ぼされたため、昌月はその部将滝川一益に城を明け渡し、後に一益は厩橋城に転じた。

 だが、織田氏の支配は短く、同年6月に本能寺の変で信長が死去すると、一益は北条勢に神流川で敗れ、箕輪城を経由して上方へと去り、箕輪城も翌年に北条一門の氏邦の支配下となって改修が施されたが、天正18年(1590)の小田原の役の際には、上杉景勝前田利家といった北国勢を前にして戦わずに降伏開城している。

 戦後は、北条氏の旧領の関東を与えられた家康の家臣で、徳川四天王のひとりに数えられる井伊直政が入城し、城の改修や城下町の整備を行ったが、慶長3年(1598)に高崎へ居を移し、廃城となった。

箕輪城本丸と二ノ丸の間の巨大な空堀

 城は、榛名山から延びる高地の突端部分にあり、西を榛名白川、南は榛名沼、北と東は水堀を廻らして防備を固めている。城内は、本丸と二ノ丸の間にある10数mの大堀切で大きく南北に区切り、そこを細い土橋1本で結んで片方が陥落しても戦闘が継続できる一城別郭という構造とし、水源も複数確保していた。

 6ヶ所の馬出しや石垣などは、北条氏時代か井伊氏時代のものと考えられており、各郭を区切る堀も広げられたようで、長野氏時代にどの程度の規模であったのかは、想像力で補うしかないようだ。この辺りは、今後の発掘調査に期待するところだろう。

 ちなみに、井伊氏時代の行った改修の際、大手と搦手が入れ替わっており、現在の車道が通っているところが長野氏時代の大手である。

 現在の城址は、城跡公園としてよく整備されており、下草などもしっかり刈られて散策しやすく、遺構も多く残っているため、見るべき個所は多い。全体的には、東国によく見られる土の城という感じで、木々を含めた古城の雰囲気を味わいつつ、ゆっくりと散策すると愉しい城である。

 

最終訪問日:2001/9/30

 

 

伝説的な長野業正の面影を探して散策したかったんですが、戦国末期から近世的な雰囲気が強かったですね。

それでも、大堀切と一城別郭など見所の多いお城で、散策は愉しかったです。