来島海峡の西南、しまなみ海道を一望できる位置にある山城。現在は海山と書いてオミヤマと読む。
古くは、奈良時代に狼煙台が置かれ、西の半島の突端にある宮崎から、遠見山と呼ばれていたこの海山を経由し、唐子山付近の伊予国府まで狼煙が伝えられたという。国府と遠見山の間には近見山があり、国府から見て遠いほうが遠見山、近い方が近見山と名付けられたと思われる。
中世に入ると、城の西にある養老地区に居館を持つ勢力ができ、遠見山城は詰城として使われたというが、その勢力が具体的にどのようなものであったかは、案内板に記載が無かった。養老地区には養老館と呼ばれる居館跡があり、隣接の岡地区や樋口地区、波方地区にも城跡が多くあるのだが、どの程度の範囲の勢力を持っていた豪族かもよく分からない。
いずれにせよ、南北朝時代頃から芸予間の海域で村上水軍が台頭すると、これに吸収されていったようだ。
村上水軍は3つの家に分かれており、最も伊予に近い来島を本拠としていた家は、来島村上家と呼ばれ、伊予守護の河野家と繋がりが深かった。戦国時代には、遠見山城は来島村上家の城砦群のひとつとなり、番所が置かれていたが、正確には城というより砦程度の規模だったようだ。
天正10年(1582)になると、以前から独立の気配を見せていた来島村上家当主の通総が、河野氏から織田氏へ寝返ったために毛利軍と河野軍の攻撃を受けて翌年に逐電し、遠見山城を含むこの辺りの城砦も、攻略されたり放棄されたようだ。来島村上家の勢力としては、通総の兄得居通年が鹿島で踏ん張っていたのだが、遠見山周辺の四国側の領地までは維持できなかったと思われる。
その後、本能寺の変を境に毛利氏と秀吉が和睦し、天正13年(1585)の四国征伐で河野氏が滅んだことにより、来島村上家が再びこの一帯を領した。そして、来島城から波方浦へと本拠を移したため、遠見山城は遠見番所として機能したという。ただ、豊臣政権下では、従来の村上水軍のような海賊活動が制限されており、城が存続していたとは言え、従来ほどの必要性は無かったものと思われる。
慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では、通総の子長親が西軍に属して一旦改易となったため、来島村上家の持つ城塞網は、すべて機能を失っており、遠見山城も役目を終えたようだ。
ちなみに長親は、後に室の縁者である福島正則の取り成しにより、翌年に豊後国森の大名として復活しているが、森は内陸の領地であり、海賊としての歴史にも終止符が打たれている。
遠見山城が、砦や見張番所が主な機能だったということもあって、それほど多くの防御設備は構築されていなかった考えられ、また、江戸時代以降は荒れるに任せていたらしく、そのまま自然に還ってしまったため、遺構もはっきりと判らなくなったようだ。
展望台周辺の地形から想像するに、頂上部には少なくとも2段の削平地があったと推測できそうだが、展望台や下段の公園が造成される際にも、恐らく遺構の破壊があったと思われ、本当に城の縄張を継承した地形なのかは不明である。
このような状態であるため、城の遺構は、今となっては確認のしようもなかったのだが、説明板では、犬走りの一部が散見されるとあった。ただ、散策した限りでは、それらしい遺構も見当たらず、ただただ立派な白亜の展望台が建っており、しまなみ海道の眺望が素晴らしいのみである。
最終訪問日:2008/10/23
お城跡ではありますが、明確な遺構は見当たらなかったので、山からの見通しの良さが、お城が在ったことの一番の証明でしょうか。
それぐらい、眺めが良い場所です。