Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

天ヶ城 (高岡城)

 伊東四十八城のひとつに数えられた山城。

 戦国時代、日向の大部分を席巻した伊東氏は、前述の伊東四十八城と呼ばれる支城網を構築したが、その中に高岡城や高岡山城と呼ばれた城があり、これが天ヶ城の前身である。また、天文2年(1533)に伊東義祐・祐吉兄弟と家督争いを起こした叔父祐武が自刃した後、その子左兵衛佐が一時籠城したり、後に野村松綱が城主であった内山城と呼ばれる城も、同一という。

 ただ、伊東氏時代はあくまで支城のひとつに過ぎず、事跡についてはあまり詳らかではない。

 その後、伊東氏の勢力は北上する島津軍の圧迫を受け、天正5年(1577)末に他の諸城と共に松綱の子文綱が島津軍に寝返り、島津氏の属城となった。以後、同15年(1587)の秀吉による九州征伐後も、島津領として残されたようだ。

 時代が下った慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の際、敗軍の陣に居た島津義弘は、あの有名な敵中突破をして帰国の途に就いたのだが、その途中の八代村で、東軍であった伊東家臣稲津重政に襲撃されかけるという出来事があった。

天ヶ城公園と模擬天守の資料館

 義弘は、薩摩帰国後も島津氏と伊東氏の国境で続く小競り合いの状況や、徳川氏からの討伐への懸念から、境目の防備の重要性を痛感し、帰国後すぐ防備の強化に取り掛かる。そして、眼下に大淀川が流れ、もともと高岡城があったこの地を整備して大規模な近世山城として再築し、天ヶ城と名付けた。城の工事は、義弘自ら土を運ぶという突貫工事により、数ヶ月で主要部は完成したという。

 ただ、島津氏から見れば、他の東軍諸大名から攻撃されるというのは十分に考えられることで、築城理由がその防御のためというのはもっともではあるのだが、世の帰趨が決した中での東軍側複数大名による討伐ともなれば、相当な大軍を相手にしなければならず、境の城が堅い程度では勝ち目の無い戦いとなる。それは、秀吉による九州征伐でも、島津氏自身が経験したはずだ。

 つまり、現実的に考えると、外交手段による解決の方が生き残れる可能性が高いのは自明であり、本拠の改修ではなく境の城の大規模な再築というのは、家康に対して申し開きをする一方、軍備を整えて徹底抗戦も可能であるというポーズを見せる、硬軟一体の政治的意図が見え隠れしている。

 やはりそこには、千やそこらの人数でも果敢に大軍を突破する薩摩の強兵ぶりを目の前で見せられた家康が、まだ世情が安定しない中での討伐となれば、どれだけの損害を出し、また、時間もどれだけ掛かるかという計算をせざるを得ないという現実があり、その命知らずの強兵が、島津氏にとって大きな外交カードになっていた事を物語っているのだろう。天ヶ城も、その外交カードを補強するものであったようだ。そして、あれだけ多くの大名が取り潰された中で、島津氏は、減封すらされず、望んだ通りの結果を引き出している。

天ヶ城縄張図

 その後の天ヶ城は、再築から僅か15年後の元和元年(1615)に、一国一城令によって廃城となった。だが、他の城と同様に、外城制度として高岡麓と呼ばれる武家屋敷区画が造られており、建物類を除きつつも、詰としてある程度は維持されていたと思われる。その証拠に、明治10年(1877)の西南戦争で薩軍が陣を敷き、政府軍を迎え撃ったという。

 城は、東流する大淀川が湾曲した部分の北側にある、久津良名と呼ばれた川沿いの平野部の北西側に位置し、西側を細流と谷筋によって断ち切られた低山に築かれている。

 その構造は、桃山時代末期の軍事要塞らしく、山頂を中心に峰伝いに築かれた7つの広大な郭が築かれていたようだ。本丸は郭群の北側に置かれ、その北東の一角がやや高く、ここが城の中枢にあたるのだろう。本丸の南側には東西に郭が並び、その中心が二ノ丸で、東に三ノ丸を置きつつ西側にも郭が連なり、それぞれが空堀で明確に区画されていた。

 現在はパターゴルフ場となっている本丸跡と、本丸北東側の一段高くなった部分を利用したであろう歴史資料館、それ以外の削平地を整備した公園の敷地は、合わせるとかなりの広さになり、往時の城の規模がどれだけ大きかったか実感できる。ただし、本丸の遺構がパターゴルフ場の下に保存されている以外は、現代的な公園となってしまっており、遺構と呼べるものは残念ながらほとんど残っていない。

 

最終訪問日:2001/11/7

 

 

縄張図を見ると、相当大きなお城だったようで、その姿を見てみたかったです。

模擬天守は非常に解りやすいランドマークなんですが、往時の姿とあまりにもかけ離れていると、城好きとしては、なんとも微妙な感じになってしまいますね。