Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

鹿児島城 (鶴丸城)

 城山の麓のなだらかな傾斜地にある城で、全国的には鹿児島城の名が有名だが、鶴が翼を広げた形に似ていることから鶴丸城とも呼ばれ、現地ではこちらの表示となっている。

 島津義弘の子で、義父であり叔父でもあった義久から本宗家の家督を継いでいた忠恒(家久)が、慶長6年(1601)の正月に築城を始め、計画的に城下も整備し、同9年(1604)に完成した。築城工事期間は、史料上では一貫して上山城の名で呼ばれており、後背の城山に在った上山城と一体的に整備する方針であったようで、麓城の性格が強かったのだろう。

 このため、本丸とその南西側に二ノ丸という、主に2つの郭で構成された居館に近いもので、本丸の北東側に御厩という出丸が設けられていたものの、堀で囲われているのは本丸のみであり、石垣も直線的で、防御面をほとんど考慮していないように感じる。また、多層の櫓や天守なども設けられなかったという。

 これは、築城の2年前の関ヶ原の合戦で西軍に与したことから幕府に恭順の意を示すためであったとか、財政難のためであったなどといわれるが、外城を領内に多数配置して本城の砦とする外城制度では、外城が機能すれば、その中心は大きな防御力を必要としないという、戦略論的な意味もあったようである。

 実際に、元和元年(1615)の一国一城令後、各外城の建物は、形式上では取り払われたものの、城の縄張は有事に備えて防衛網を維持できるようそのまま残されていたといわれ、居館のような本城でも、領内に強固な防衛体制を築けるという自信が内に秘められていたのではないだろうか。

 また、鹿児島城の前の本拠で、家久の祖父貴久が築いた内城も、1辺100m四方の居館造りであったことから、島津氏の本城に対する考え方が、人をもって守りと成すという言葉で象徴されるように、伝統的に城に依存する思考ではなかったのかもしれない。

 島津氏を辿っていくと、初代忠久が島津荘司となったことに始まるが、当時の全国最大規模であった島津荘を得た上、後に薩摩・大隅・日向の守護職に就いたというのは、鎌倉幕府草創の功臣でもない忠久にとっては破格の出世で、このことから、忠久が頼朝の落胤であるという説が広く信じられていた時代があった。

 現在は、渡来系の秦氏の裔である惟宗姓というのが通説で、頼朝の乳母で母方の祖母と見られている比企尼の縁者として出世したようだ。つまり落胤説は、源氏系政権下において最も尊ばれる血統に仮冒していた疑いが強い。

 その島津氏が鹿児島と関わりを持ったのは、南北朝時代の興国2年(1341)に5代当主貞久が鹿児島進出を図ってからで、大隈に勢力を持っていた南朝方の肝付兼尚の弟兼重を破って東福寺城を手に入れたことによる。

 貞久は、念願だった薩摩・大隅・日向の守護となり、大隅守護を継承して奥州島津家の祖となった子の氏久に城を預けた。氏久の子元久は、薩摩守護職を継承した総州島津家と争って惣領となり、居城を東福寺城からほど近い鹿児島の清水城としたため、鹿児島周辺が島津本宗家の象徴と見なされるようになったという。

 この後、島津家中では庶家や有力国人との内訌が続き、本宗家の勢力は衰えてしまうのだが、近世島津氏の祖で、伊作島津家と相州島津家を統合した忠良が子貴久の本宗家相続に成功し、薩州島津家の実久と激しく争いながら父子は領内をまとめ上げ、義久の時に九州統一を成し遂げて行く。

 このような流れの中、本宗家の居城は、守護職を相続した直後に清水城を追われた貴久が、20数年ぶりに鹿児島へ復帰した時に、清水城からほど近い内城へと移され、鹿児島は本宗家の象徴であり続けた。さらに江戸時代には、この鹿児島城が本拠となっており、500年近くもの間、鹿児島は島津氏を象徴する町であり続けたのである。

 築城後の鹿児島城は、詰城である上山城の城代であった島津常久が慶長19年(1614)に没すると城代が置かれなくなり、後に城山自体が入山禁止となったため、鹿児島城が唯一の本城として機能した。

 江戸時代に幾度も建物の焼失と再建を繰り返したが、明治6年(1873)に焼失した後、さらに同10年(1877)の西南戦争でも破壊されたため、長らく石垣のみがその痕跡を留めていたが、令和2年(2020)に御楼門が再建されている。

 征韓論で敗れた西郷隆盛が、鹿児島に帰郷した後に私学校を城の御厩跡に建て、すぐ後背にある城山で最期を迎えたのは有名な話だが、島津氏が鹿児島に敵を迎えた際も、城としては同様の使い方を想定していたのだろう。熊本城の堅牢さや田原坂の迎撃もそうだが、西南戦争において、江戸時代初期に築城された城郭などの機能面が検証されたというのは、なかなか興味深い。

 

最終訪問日:2001/11/6

 

 

本丸跡には、鹿児島県歴史・美術センターの黎明館が建っていて、その周囲を石垣や堀が囲っていますので、この辺りだけは、城としての雰囲気が残っていました。

二ノ丸には県立博物館などかあり、文教地区という面で落ち着きはありますが、都市化してしまって城跡の雰囲気は皆無でしたね。

ただ、城山と共に鹿児島の歴史を刻み込んだ場所であると思うと、なんだか感慨深いものがありました。