Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

金子城

 金子氏代々の居城で、金子山城ともいう。

 金子氏は、もともと武蔵七党の村山党の豪族で、桓武平氏である。平頼任多摩郡村山郷を領して地名を称したのが村山党の最初で、その孫家範が入間郡金子郷に入って金子氏の祖となり、家範の子家忠は保元元年(1156)の保元の乱や平治元年12月(1160.1)の平治の乱で活躍した。

 金子氏が伊予に足掛かりを得たのは、源平の合戦後で、家忠が源義経の指揮下で戦い、その功で新居郷の地頭職を得たことによる。そして、鎌倉中期に家忠の孫広家が移住したことにより、伊予金子氏としての歴史が始まるのだが、その年代は建長年間(1249-56)の頃という。

 新居に入った広家は、新居郷を見渡せる山を自身と同じ金子山と名付け、拠点となる居館と詰城を築いた。従って、城の築城年代も、入部すぐの建長年間ということになるのだが、これ以降の金子氏の活動は判然としない。また、一説に、後世の金子宅世の頃に築かれたともいう。

公園内にある金子城址

 鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての頃は、やはり金子氏の存在感は非常に薄いのだが、南北朝初期の頃に忠高と康広の兄弟がおり、尊氏に味方していたのが見える。しかし、それ以降、河野氏細川氏の奪い合いとなった東予での活動は不明で、次の史料への登場は、戦国時代まで待たなければならない。

 その頃の新居郷周辺の情勢を見ると、対立を続けていた河野氏細川氏は、康暦元年(1379)4月の康暦の政変で失脚した細川頼之が、頼之討伐を図った河野氏の先手を打って伊予に侵攻し、11月に通堯が討死している。そして、通堯討死の翌々年には、将軍足利義満の仲介を入れて両者の和睦が成り、嫡子亀王丸(通能・通義)が河野氏の本領にあたる中予を継ぎ、次男通之が細川頼之と親子の契りを結んで新居郡と宇摩郡を領した。

 こうして、新居郷周辺の争乱は一旦収まり、通之は、通能の早世で家督を継いだ後、通能の子通久に家督を譲り、通之の系は庶流の予州家として続くのだが、通之の子通元の時から、宗家と予州家の間で数代に渡って家督争いが繰り返されたため、次第に東予に関与する余力を失って行く。

 これに対し、東予2郡に強い影響力を残していた細川氏は、早くも康応元年(1389)には領国運営の文書を出しており、細川一門の備中守護家や野州家が、宇摩郡や新居郡に分郡守護などで勢力を持つようになった。

金子城跡の展望台から金子城本丸と思われる最高部の削平地

 その際、備中守護代だった石川氏の一族が、現地支配の郡代として赴任したと思われ、後に備中守護細川家の没落によって伊予石川氏が台頭することとなる。

 この頃の金子氏の動向については、僅かに見えるのみで詳らかではないのだが、汁椀の蓋だけを取り替えるように、恐らくは予州河野家から細川氏、その没落後は伊予石川氏に主家を変えつつ、椀の中身となる自らの勢力を温めていたのだろう。金子氏は、この石川氏の下で勢力を大きく伸ばし、歴史に登場して来る。

 戦国時代中期の伊予石川家当主通清は、阿波細川家の重臣であった三好氏が伸張すると、これと婚姻を結び、連合して河野氏と戦うなどの動きを見せていた。その後、将軍となった足利義昭が、河野氏の働きかけで元亀元年(1570)に2郡を返還する御内書を出しているが、石川氏がそのまま領し続けたようだ。

 戦国時代後期に入ると、一郡の領主から身を興した長宗我部元親が土佐を統一し、四国中央部と海岸沿いから阿波や伊予へ侵攻を始め、通清とその重臣金子元宅は、元親が阿波白地城を攻略して拠点化した天正6年(1578)の少し後から誼を通じたが、中小豪族の鉄則で、河野氏を通じて小早川隆景とも交流し、両面外交を図っていたという。

金子城跡の東屋のある四角い削平地

 そして、元親が伊予経略をほぼ終えようとする頃、秀吉による四国征伐が開始される。この時、通清は既に亡く、その孫竹虎丸が元宅の後見を受けており、元宅が実質的な領主であった。

 元宅は諸将を集め、情勢を見れば秀吉に降るのが是であるが約を変じ強い方につくのは男子ではないとして、徹底抗戦を選んだ。そして、金子城に弟元春を、自らは高尾城で諸将の兵と共に籠城した。

 天正13年(1585)7月、毛利軍はまず元春が籠る金子城を力攻めにして落城させたが、この時には元宅を慕う領民のゲリラ作戦もあったという。金子城を落とした毛利軍は、続いて高尾城を囲み、激しい攻防が繰り広げられたが、やはり多勢に無勢、もはやこれまでと悟った元宅は城に火を放ち、城外に討って出て壮絶な討死を遂げた。これが俗にいう天正の陣である。

 金子城は、この落城で廃城となり、城を守った元春は退却時に踏みとどまって討死したとも、後に出家して慈眼寺を建て、一族や兵の菩提を弔ったともいう。また、元宅の一族は、土佐で人質となっていた系統が元親に保護され、後世に血脈を伝えたとされる。

金子城跡から新居浜市

 現在の金子城は、滝の宮公園となっており、標高約80mの頂上部に城跡があるが、山頂近くまで車道が繋がっていた。行き止まりにある駐車場は峰の鞍部だったが、この部分では遺構は見られず、駐車場から緩やかに登る遊歩道を北へ行った場所が城跡という。

 周辺地形を見ると、頂上部の西側には、巨大な空堀の機能を果たした浸食谷が入り込み、北と東は急斜面という要害の地に城はあった。展望台からは、眼下に新居浜市街が一望でき、堀の役割があったと思われる東川も確認することができる。

 城跡には、東屋のあるやや四角い部分と、展望台と遊具が設置された細長い部分からなる、細長いひょうたん形の削平地があり、これは主郭部を利用したものだろう。ただ、間に堀切などの、郭を分かつ構造物が見られず、往時は同一の郭として機能していた可能性がある。あるいは、公園が開発された際、堀切などが失われたのかもしれない。城跡とは反対方向の、駐車場から南へ続く峰もなだらかで、防衛上、何らかの施設があってもおかしくないのだが、残念ながら、こちらにも遺構らしき物は見当たらなかった。

 登りやすい城ではあるが、遺構の類はかなり少なく、往時の姿を創造することが難しい城である。

 

最終訪問日:2008/10/23

 

 

訪れた日が曇天で惜しかったんですが、晴れた日には、山城らしく瀬戸内の素晴らしい眺望が広がっているんでしょうね。

市街地も一望できるので、お城に興味が無い方にもお薦めです。