Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

宇都宮城

 関東八家に数えられる名族宇都宮氏が、550年もの間に渡って居した城で、関東七名城のひとつ。

 伝承によれば、宇都宮氏の祖となる藤原宗円という人物が、永承6年(1051)からの前九年の役の際、この地で祈祷した功によって宇都宮社務職に任ぜられ、康平6年(1063)に館を構えたのが始まりとされる。一方、天慶3年(940)に藤原秀郷が居館を構え、その子孫が90年余に渡って居していたとの伝承もあるという。もしかすると、秀郷の居館跡を利用する形で宗円が築城したのかも知れない。

 この城を代々本拠としていた宇都宮氏は、前述のように宗円が祖とされ、一般には、宗円は関白藤原道兼の曾孫とされるが、これ以外にも諸説がある。

 宇都宮の地名は、二荒山神社下野国の一宮であるため、イチノミヤと呼ばれていた発音が転訛したとされるのだが、その二荒山神社神職は、もともとは下毛野国造が掌握していた。宗円の子宗綱は、日光山別当をも兼ねているが、日光山は二荒の音読みで奥宮に相当するものと思われ、これらを掌握できたということをもって、宇都宮氏は下毛野国造の流れだったとも考えられている。

 平安時代の公地公民制の下で、開拓領主は開拓した私領を京の貴族に寄進し、自らは現地の管理人として実質的に支配するという手法を用いたが、その際に貴族一門の婿や娘を迎えたり同族末端と仮冒したことを考えれば、藤原氏は仮冒で、実際は国造の流れだったという説にも説得力があるようだ。

宇都宮城本丸土塁の上に復元された清明台と内堀

 いずれにせよ、平安時代からの有力な在地豪族で、鎌倉時代には北条氏とも繋がり、有力な御家人であったことはは間違いない。その証拠に、小田氏や茂木氏といった有力豪族の祖である八田知家を輩出しているほか、豊前と伊予を始めとして全国に宇都宮氏の一門が発展しており、頼朝ゆかりの相模や伊豆の豪族以外では、かなり発展した一族だったと言える。

 南北朝時代に入ると、宇都宮氏は、最初は南朝に、後に北朝に転じて勢力を保ち、観応元年(1350)からの観応の擾乱後は守護職にも就いたが、やがて鎌倉公方足利氏や関東管領上杉氏と争って守護職を剥奪され、室町中期には当主の早世と一族からの養子が多くなり、内紛が絶えないようになった。

 戦国時代初期の当主成綱は、このような状況を打開するため、父方の叔父芳賀高益と結んで従わない家臣の一掃に成功し、近隣の小山氏の圧迫に対しては、足利公方側から対立する関東管領方に寝返って対抗している。そして、高益の子景高の代になると、芳賀氏の勢力が主家を圧倒するようになったが、成綱は逆に芳賀氏を筆頭とする半独立的な勢力を討伐し、対外的にも佐竹氏や岩城氏、那須七党と優勢に戦いながら勢力の安定化に成功した。

 しかし、成綱が死去すると、再び芳賀氏や壬生氏ら重臣を巻き込んだ家督争いと叛乱により、当主の横死や討死が重なって勢力は弱体化し、天文18年(1549)年には那須氏に内通した家臣壬生綱房に宇都宮城を奪われ、当主尚綱は那須氏と戦って敗死してしまっている。この頃が宇都宮氏の混迷のピークと言えるだろうか。

宇都宮城本丸土塁と内堀

 尚綱の子広綱は、芳賀高定に保護されて宇都宮城から落ち延び、天文24年(1555)の綱房の急死、あるいは高定による暗殺を経て、弘治3年(1557)に宇都宮城へ復帰した。

 その後も、関東へ遠征して来る上杉謙信に従って北条氏に対抗し、叛いた壬生氏や近隣の皆川氏に対しては、佐竹氏の支援を受けて対抗したが、壬生氏らも北条氏と結んで対抗したほか、一度臣従した皆川俊宗が元亀3年(1572)に広綱の病に乗じて1年間宇都宮城を占拠するなど、安定はしなかったようだ。そして、宇都宮城で支えきれなくなった広綱の子国綱は、詰として多気山城を築き、移らざるを得ない所まで追い込まれている。

 しかし、北条氏への対策から、秀吉と誼を通じるなど、外交策が功を奏し、天正18年(1590)の小田原の役への参陣で本領は安堵された。そして、戦後すぐの同年7月にはこの宇都宮城に秀吉が入城し、奥州の仕置を行っている。

 豊臣政権期の宇都宮氏は、情勢の安定から宇都宮城へ本拠を戻し、佐竹氏とともに石田三成に接近しているが、三成と対立していた浅野長政による検地で所領の申告が虚偽であったとされ、残念ながら慶長2年(1597)に改易された。この理由には諸説あるが、真偽のほどは知れない。

宇都宮本丸土塁上から城址公園となった本丸を見下ろす

 宇都宮氏が改易された後、浅野長政が城代を務め、翌年には蒲生秀行が18万石で入部して城下を整備し、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の際には、秀行は結城秀康と共に上杉氏への抑えとしてこの城に籠った。

 そして、江戸時代には、北関東の要衝として、また、日光に近い藩として、有力譜代である奥平家昌が10万石、次いで本多正純が15万5千石で入り、この時に近世平城へと変貌を遂げている。

 この正純は、まるで推理小説のトリックのような釣り天井事件で失脚するのだが、実際のところは、前宇都宮藩主奥平忠昌の祖母で秀忠の姉である亀姫の讒訴や、正純の政敵による策謀が原因で失脚したというのが、現実的な理由だろうか。

 本多氏の後の宇都宮藩は、奥平氏、奥平松平氏、本多氏、奥平氏、阿部氏、戸田氏、深溝松平氏と、めまぐるしく譜代や親藩が入れ替わり、安永3年(1774)に戸田氏が8万石で再封して以降は、移動なく維新まで続いた。

 ただ、平穏だったわけではなく、幕末の元治元年(1864)の天狗党事件の際、天狗党の通過を許した件で幕府から叱責を受け、藩主忠恕の隠居謹慎と減封、そして棚倉への移封が言い渡されている。この時は、山稜奉行だった家老戸田忠至の天皇陵修築の功により、朝廷から幕府への働き掛けがあり、最終的には移封は撤回されたという。

宇都宮城縄張図

 城は、居館から出発した平城で、田川を東の堀とし、本丸を中心にほぼ同心円状に二ノ丸と三ノ丸、外郭、及びその間を区画する四重の堀が配され、16の櫓を持つ巨大な城であった。

 しかし、慶応4年(1868)の戊辰戦争の際、官軍に恭順していた宇都宮藩を江戸から退去した旧幕府軍が攻撃して炎上し、さらに東征してきた官軍がこれを奪い返したため、建物は戦火で全て焼失してしまっている。

 維新後は、明治4年(1871)から陸軍が使用したため、同6年(1873)の廃城令でも存城扱いとなったが、建物が焼失していたために城地の保存は考慮されず、大戦後は都市化の波が城地を覆ったため、遺構もほとんど失われてしまった。

 現在の城跡は、本丸の一部が公園として残るだけだが、威容を残す高土塁が在り、富士見櫓と、天守代わりであったという清明台の2棟の櫓が復元され、都市化の波に呑まれつつも城らしい雰囲気を残している。

 この城址公園の範囲は、土塁の中に設けられている資料室で見ると、本丸の北西側5分の1程度の範囲だが、他の城では本丸として十分機能するほどの大きさだろう。本丸がこの約5倍、更に外郭までを含めた範囲が本丸の数十倍と考えると、北関東の要として、どれほど巨大な城だったかというのがよく解る。

 

最終訪問日:2014/5/10

 

 

最初に訪れた時は、駅前の案内板からは、当時の御本丸公園の情報が得られず、城跡に到達できませんでしたが、13年振りでリベンジ達成です。

城址公園の都市の中に突然現れる巨大な土塁が、非常に印象的なお城でした。

この土塁も、往時のごく一部が残っているだけなんですが、下野の重要拠点だっただけに、その威容はさすがですね。