Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

小山城 (祇園城)

 藤原秀郷の築城という伝承を持ち、その子孫で小山(オヤマ)氏初代政光の築城ともいわれるが、築城時期に関しての詳細は判っていない。築城時に祇園社を祀った事から、祇園城とも呼ばれている。

 南北朝時代には、北朝方の拠点としての小山城が登場するが、周辺には中久喜城、鷺城、長福寺城などがあり、この祇園城そのものを小山城と呼んだものか、全体を連携した小山氏の本拠として小山城と呼んだものかは不明という。

 小山氏は、関東八家のひとつに数えられる藤原秀郷流の名門で、初代政光は、秀郷直系の太田行政、あるいは行光の子として生まれ、久安6年(1150)頃に武蔵の太田荘から広大な小山荘へと移り、小山を名字とした。そして、この小山荘を基盤として力を蓄え、政光の子から結城氏や長沼氏等の支族を輩出するなど、小山氏一党は下野で最大級の武士団へと成長していく。

 治承4年(1180)の頼朝の挙兵の際には、政光と嫡子朝政は大番役として在京していたが、政光の後室である寒河尼が、かつて頼朝の乳母を務めていた関係から、末子を頼朝軍に従軍させた。この末子は、頼朝を烏帽子親として宗朝(朝光)と名乗り、関東豪族が頼朝を担ぎ上げるきっかけのひとつとなっている。

 こうして、小山一党は頼朝の軍勢に加わり、その功によって朝政は下野守護の地位を獲得し、以降は小山氏が守護職世襲した。

 建武期から南北朝にかけては、秀朝が新田義貞に加担して鎌倉幕府滅亡に功を挙げ、引き続き建武政権から下野守護に任じられたが、秀朝は子が幼い頃に討死したため、全国の有力豪族がそうであったように、小山家中も嫡子朝郷と次子氏政をそれぞれ家臣らが擁立し、南北朝に分かれて争う事となる。この争いは、朝郷の急死により、一貫して北朝を支持していた氏政が惣領家を継いだ。

小山城の現地解説板

 この氏政の子義政は、北朝方として大いに活躍し、その功によって下野守護に補任されているのだが、当然の事ながら前守護で下野国司でもある宇都宮基綱との対立を誘引した。また、鎌倉公方足利氏満も、幕府に近い立場であった小山氏を牽制する方針を採っていたため、必然的に義政と基綱は合戦に及び、康暦2年(1380)に義政は基綱を討ち取ってしまう。

 これを受け、氏満は満を持して翌同3年(1381)に義政の討伐令を発し、降伏と討伐を3度に渡って繰り返したのが、小山義政の乱である。義政は、この乱に敗れて自害し、逃れた嫡子犬若丸もまた敗れ、この戦いで小山氏の正統は絶えた。

 この一連の戦いの中では、父子が鷺城から祇園城に移っていることが見え、後に祇園城を焼いて櫃沢城に移り、3度目の討伐を受けている。

 乱後、小山氏の名を惜しんだ氏満は、一族の結城氏から泰朝を迎えて名跡を継がせ、以降は結城氏支援の下で勢力回復に努め、永享12年(1440)から翌年に掛けての結城合戦で結城氏が没落すると、嘉吉年間(1441-44)には下野守護に返り咲いた。小山氏がこの城を本拠としたのは、この復興された15世紀以降とされる。

 しかし、これ以降、享徳の大乱と呼ばれる約30年に渡った鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏の対立を始め、足利氏の内乱や上杉氏の内乱といった争いに巻き込まれ、山川氏や結城氏から養子を迎えるという後継の不安定さや、家臣の反乱等もあり、徐々に小山氏は勢力を衰えさせて行く。

 戦国中期から末期になると、北条氏の台頭と長尾景虎(上杉謙信)の遠征によって関東の諸豪族は次第に独立を失って行くのだが、小山城も永禄元年(1558)に長尾勢によって攻囲され、当主高朝は一戦も交えることなく降伏し、落城していることが見える。この時は、長尾勢が5月の多功ヶ原の戦いで敗れて撤退したため、城を回復したようだ。

 その後の小山氏は、北条氏と上杉氏に降伏や反乱を繰り返した挙句、天正3年(1575)に北条氏によって小山城を追放され、当主秀綱は佐竹氏の下へと逃れた。

小山城の明確に残っている郭と空堀

 小山氏の追放後、小山城は北条氏照が支配し、秀綱は、奪回の兵を挙げるも奪い返すことができず、天正10年(1582)4月に武田氏を滅ぼした織田氏の勢力伸張によって、ようやく小山城に復帰している。しかし、同年6月本能寺の変織田氏の勢力が退くと、再び北条氏照の影響下に入らざるを得ず、天正18年(1590)の小田原の役の時も北条に味方したため、結城晴朝の攻撃で落城し、改易となった。

 城は、思川に臨む台地を中心に築城されているが、北条氏時代に北条氏照によって大きく改修されたといわれており、それ以前の小山氏時代の規模は、現在の公園となっている大きさ程度と考えられている。

 小田原の役以降は廃城となっていたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦前夜、上杉氏の討伐に向かっていた家康が石田三成の挙兵を聞き、この城跡で小山会議を開いたのは有名で、その碑がすぐ横の市役所にあるが、当時はそこまでが城域だったという。地図で見ると、そこは惣構の範囲かと思われるが、末期は相当拡げられていたことが解る。

 城の縄張としては、台地の南端に逆三角形に近い形の本丸を置き、そこから角馬出を挟んで北に第2郭を設け、さらにその北と東に郭があった。その北の台地の北端には、天翁院という寺院が置かれていたが、ここが城内最大の郭となっていたようだ。

 現在、城址公園に見られるのは、本多正純が慶長13年(1608)に城主となって南北700m、東西400mの近世城郭としての縄張を完成させた時の遺構で、これは氏照時代の縄張を基本として拡張したものだろう。元和5年(1619)に正純が宇都宮に移って廃城となった後、城としては活用されなかったが、城の初期の規模程度は残っており、当時と同様、眼下に思川を廻らせ、深い堀切や郭の構成がはっきりと確認できる城跡となっている。

 

最終訪問日:2001/9/29

 

 

城跡は、市街地の中の緑豊かな公園としての役目も果たしていました。

訪れたのがちょうど昼時で、弁当を持参してくつろいでいる人がたくさんいたのが印象的でしたね。

都市部の中の落ち着く空間でした。