Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

唐沢山城

現地の唐沢山城縄張図

 藤原秀郷が天慶年間(938-47)に築城したという伝説を持つ城で、その子孫である佐野氏が代々居城とした山城。関東七名城のひとつにも数えられる。

 秀郷は、平将門を討伐した功により下野守、後には鎮守府将軍に叙任され、以降5代に渡って歴任し、関東に広く子孫を残した。

 佐野氏は、足利に移った秀郷の子孫である藤姓足利氏から分かれた庶流で、本家は頼朝の叔父志田義広の謀反に与して没落する中、平安末期から鎌倉初期に廃城となっていた唐沢山城を修復し、後に御家人として佐野荘を領したという。佐野の名乗りは、成俊、もしくはその弟の有俊、有俊の子で成俊の養子となった基綱の、いずれかから称したようで、城自体を再興したのは成俊という説が有力である。

 これ以降、宝治元年(1247)の宝治合戦で三浦氏に味方して衰えるものの、元弘元年(1331)から始まる元弘の乱では、足利氏に属して勢力を取り戻し、南北朝時代には概ね北朝に属して当地の土豪として脈々と続いた。

 しかし、戦国時代も終盤になると、小大名の宿命として、越後の上杉氏と相模の北条氏の間を行き来せざるを得なくなり、一方に味方すれば他方から攻められるという状態となってしまう。特に上杉謙信からは、10度に渡る攻撃を受け、降伏と離反を繰り返したが、ついに永禄7年(1564)に当主昌綱は完全に臣従した。

 その後、謙信の親族である長尾虎房丸を養子に迎えたといわれ、上杉氏の関東における重要な拠点のひとつとして機能し、色部勝長・顕長父子が派遣され、昌綱と共に北条氏の幾度にも渡る攻撃を防いだという。

 天正6年(1578)の謙信の死去により、上杉氏の勢力が関東から後退すると、今度は佐竹氏や、織田氏の部将滝川一益と結んで北条氏に敵対したが、天正11年(1583)に当主宗綱が隣国の長尾氏との戦いで討死してしまった結果、家中は親佐竹と親北条に割れ、結局は北条氏から氏康の子氏忠を迎え、北条の支配下となった。

 このような動静の中、唐沢山城は、降伏することはあっても、謙信や北条氏康といった名将の攻撃にも耐え、落城だけは免れていたようだ。関東七名城に数えられる城だけあって、かなりの堅城振りを示したと言えるだろう。

 佐野氏の嫡流が絶え、北条氏から氏忠を迎えた時、宗綱の叔父であった天徳寺宝衍は出奔し、上洛して秀吉に仕えている。これが結果的に奏効し、天正18年(1590)の小田原の役では、当然ながら実家の佐野氏は北条氏に味方していたのだが、宝衍自ら北条方の勢力を城から追い出したため、家を継ぐ事を許され、佐野氏は滅亡を免れると共に本来の血脈に戻った。

 宝衍は、了伯とも房綱とも呼ばれた武将で、秀吉の家臣富田知信の五男信種を養子に迎えて後嗣としており、信種は秀吉から一字を貰って信吉と名乗っている。しかし、その信吉は、江戸時代になって幕府の命で慶長7年(1602)にこの城を廃城とし、やや南の現在の佐野市街に佐野城を築城している最中に、大久保長安の事件に連座して改易されてしまった。偶然ではあるが、佐野氏は、この唐沢山城と終焉を同じくしたと言えるのかもしれない。

 現在残っている城は、関東の山城では珍しく、本丸から三ノ丸までが石垣でできており、大手桝形や本丸の石垣はなかなか壮観で、中世から近世にかけての整備の跡を知ることができる。本丸を中心に、峰ごとに北城、南城、西城の出丸があり、大規模と言うほどの大きさを持つ城ではないが、城としてバランスの良さが見え、関東七名城の名に恥じない構造だ。

 現在の城跡は、唐沢山神社の境内として、また、県立公園としても市民に親しまれており、遺構の状態も良く、散策しながら観察すると、非常に面白味が感じられる。また、標高も240mあることから、天狗岩からの眺めも関東平野を一望できるほどで、非常に気持ちが良い。晴れた日には東京の高層ビルが見えるらしく、江戸城大火の挿話があるのも頷ける。

 

最終訪問日:2001/9/30

 

 

自然を満喫しながらハイキングコースを登る人もいて、気持ちが良さそうでした。

神社まで車道もついていて、とても訪れやすい城ですね。

車道は車道で、バイクで走ると、ワインディングがとても愉しい道でした。