Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

烏山城

烏山城二ノ丸の説明板

 戦国時代の那須氏が居城とした城。

 那須氏の出自は詳しく判っていないが、古代那須国造の末裔とも、藤原道長の流れともいわれている。伝説では、那須国造の家系に中央から下った道長の曾孫貞信が娘婿として入ったとされ、那須の藤原という意から須藤と名乗っていたという。また、相模山内首藤氏の同族とする説もあるが、須藤氏と首藤氏は、その読みから混同される場合があるようで、これはその読み間違いの一例なのかもしれない。

 那須氏が歴史上で有名になるのは、源氏方として屋島の合戦で扇子を撃ち抜いた与一宗隆が名を上げてからである。宗隆は、父資隆の十一男という立場だったが、兄達のほとんどは平家に味方しており、源氏に味方したもうひとりの兄弟である十男為隆が義経に追放されたため、大功もあった宗隆が後に惣領となった。

 これにより、兄達も宗隆から知行を受け、福原氏や千本氏といった一門衆の祖となり、後にはこの2家に庶流の芦野氏や井王野氏、武蔵丹党だった大関氏、太田原氏を加え、那須宗家を含めた7家で那須衆、那須七騎などと呼ばれるようになる。

 鎌倉時代には、那須氏は御家人として那須地方に勢力を培い、鎌倉幕府が倒れた後は、建武期や南北朝時代において、一貫して尊氏に従った。そして、室町政権の北関東における中心的な存在として、幕府を支えつつ勢力を蓄え、守護ではなかったものの、それに匹敵する力を持つようになって行く。また、鎌倉以来の名家として、関東八家のひとつにも数えられている。

 しかし、応永23年(1416)から翌年にかけての上杉禅秀の乱を始めとする鎌倉公方の混乱は、その管轄下にあった北関東にも及び、この応永年間(1394-1428)頃に那須氏は上家と下家に分裂してしまった。そして、烏山には那須下家の沢村資重が拠り、烏山城は、上杉禅秀の乱直後の応永25年(1417)に資重によって築かれたとも、その孫資実によって明応年間(1492-1501)に築城されたともいう。

 その後、家督争いと大田原氏の介入によって永正11年(1514)に上家の嗣子が絶えたため、下家の資房が子の政資に上家を継がせて実質的に那須氏を再び統一し、この烏山城が名実共に那須氏の本拠となった。

 だが、この那須氏の統一は安定したものではなく、戦国時代中期には、那須氏は他の下野の豪族と同様、重臣や一族の台頭によって周辺の北条氏や佐竹氏を巻き込んだ家督争いや離合集散を繰り返すようになる。

 資房の死後、その子政資と孫の高資が対立し、烏山城を奪取して家督を継いだ高資が天文18年(1549)に宇都宮尚綱を討ち取って版図を拡げたのも束の間、今度は高資が重臣大田原綱清と宇都宮氏の陰謀で暗殺され、家督を継いだその異母弟資胤も、勢力の大きくなりすぎた綱清や綱清の兄大関高増と対立した。

 綱清や高増が佐竹氏と組んで佐竹義重の弟義尚を那須惣領に迎えんとしたため、対立は永禄6年(1563)から数年間も続き、一時は烏山城まで攻め込まれることもあった資胤だったが、劣勢でもよく持ち堪え、やがて家臣団の再建に成功している。

 資胤の子資晴は、最初は佐竹氏、後に北条氏と結んで盛んに兵を繰り出し、最大の版図を築いた。だが、天正18年(1590)の小田原の役の際に小田原へ入城することはなく、しかしながら秀吉方として参陣することもしなかったという。日和見に過ぎたのか、佐竹氏や宇都宮氏などの親秀吉派の大名との関係が険悪であったため、烏山城を留守にできなかったのかは不明だが、遅参を理由に那須氏は改易され、長年本拠とした烏山を退転することとなる。

 その後、那須氏は家臣の陳情などによって5千石の所領が子の資景に新知として与えられ、江戸時代には大名に復活したが、資景の子資重の早世により、大名としては1度は無嗣断絶となった。しかし、まだ存命だった資景は、養子として4代将軍家綱の叔父にあたる資弥を迎え、この資弥の時に大名へと復活し、やがて天和元年(1681)に烏山への返り咲きを果たす。しかし、残念ながら資弥没後の家督争いによって再び改易になってしまい、大名としての那須氏は再び滅んでしまっている。

 一方、資晴の退去した烏山城には、移封を拒否して尾張を没収された織田信雄が120万石から2万石への大減封で入部したが、すぐに北条氏の旧臣である成田氏長へと代わり、江戸時代に入って成田氏が無嗣断絶となった後は、松下氏、堀氏、板倉氏と転封が続く。そして、前述の那須氏を挟んで永井氏、稲垣氏と続いて、享保10年(1725)からの大久保氏の時に維新を迎えた。

 ちみなに、大久保氏時代にあった天保の大飢饉の際には、本家の小田原藩大久保氏にゆかりのある二宮尊徳を迎え、荒廃した田地の復興を図っている。

 城は、那珂川右岸の典型的な中世の山城を基本として整備拡張した城で、他の山城が江戸時代に入って不便さを解消するために改修されたのと同様に、烏山城でも、江戸時代の堀氏時代に政庁や居館の機能を麓に増築した三ノ丸へと移しており、近世平山城の形式と言えるだろう。その三ノ丸は、明治5年(1872)の大雪で崩壊してしまっており、山上の建造物も、翌同6年(1873)の落雷によって焼失し、同年の廃城令で正式に廃城となっているが、山中の遺構の保存状態は良い。

 十二曲と呼ばれる急峻な登山道を登っていくと、空堀や堀切、郭跡がはっきりと確認でき、山上は中世山城の趣が強く感じられ、近世かそれに近い時代に築かれたと見られる石垣も部分的に残っている。ただ、麓から延びている登山道は、所々整備が今ひとつで難渋する上、木々が多くて薄暗かった。一方、山上の部分とは反対に、麓には近世城ならではの整備された雰囲気が一部に残っており、この二面性も烏山城の魅力だろう。

 

最終訪問日:2001/9/28

 

 

訪れた日は、運悪く雨模様ということもあり、薄暗い城がさらに暗くなってしまい、上の1枚以外、きちんと何が写っているのか判る写真が撮れていませんでした。

現像してびっくりのフィルム時代の苦い思い出です笑