Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

神田城 (那須神田城)

神田城北側には土塁と空堀という城郭らしい遺構が残る

 古代から中世にかけて那須一帯を領した那須氏の初期の城といわれ、築城時期は天喜4年(1056)、長治2年(1105)、天治2年(1125)など諸説あるが、いずれにしても11世紀から12世紀にかけてとみられている。

 伝承によると、讃岐国神田を本拠としていた須藤権守貞信が、八溝山の岩嶽丸を討伐した功によって那須郡司に任ぜられ、旧本拠の名前を取って居館として築いたのが最初という。そのため、那須城や那須神田城と呼ばれることがある。

 この貞信は、藤原道長の曾孫とも、那須国造の末裔ともいわれるが、出自ははっきりとしない。ただ、他の出自がはっきりとしない関東諸豪族と同様に、那須氏も、ある程度の力を持っていた豪族が土地を開拓して領主化したものというのは間違いなさそうだ。

 ただ、伝承通り藤原氏系の地方役人が開拓したのか、古代より支配階級にあった国造の裔が藤原氏に土地を寄進するなどして出自を求めたのか、あるいは国造系勢力が保身のために藤原系貴族を婿として迎えたのか、はたまた両者とは関係ない第三者が勢力を培って藤原氏と縁戚になった、もしくは姓を借りたのか、この辺りは想像するよりほかない。

 その後の那須氏は、資隆の代に至って須藤から那須に改称したとされ、この頃は源氏に従っていたが、平時元年12月(1160.1)に勃発した平治の乱の敗北で源氏が勢力を失うと、資隆の子らは平氏に従った。源平合戦屋島の戦いで扇子を見事撃ち抜いた那須与一宗隆は、資隆の十一男としてこの城で誕生したと伝えられるが、兄達が平氏に従っていたため、源氏の興隆とともに惣領家を継ぎ、兄弟は那須衆と呼ばれる一族の祖となっている。

 城は、資隆の時に黒羽の高館へと移った後、廃城になったとされるが、資隆の父である宗資の時には、すでに本拠が稲積城へ移されていたともいう。この説では、与一宗隆の出生地がこの城であるという伝承とは矛盾するが、資隆の時に一時的に本拠が戻されていたか、それとも神田、稲積両城ともに本拠地として使われ、やがて高館に一本化されたのかもしれない。

 構造は、中世初期の居館城郭以上のものではなく、高さ数mの土塁と堀に囲まれた単郭方形のシンプルな城で、堀を造るために掻き出した土砂で土塁を造るという中世の典型的な造成法が窺えるが、南北117m、東西66mの広さを持っており、中世の居館城郭としては規模が大きく、当時の那須氏の勢力が反映されているのだろう。

 訪れた時は、郭の内側は水田となっていたが、国の指定史跡でもあり、現在は那須神田城址公園となっているようだ。土塁や堀は一部破壊されているものの、古さの割に保存状態は良好で、城跡として見るべき場所は少ないものの、古い時代の城郭資料としては貴重な存在である。

 

最終訪問日:2001/9/28

 

 

道路地図で偶然発見し、立ち寄りました。

城としては非常にシンプルな構造なんですが、有名な那須与一が幼少期に過ごした城かと思うと、なんだか遠いようで近く感じます。

ちなみに、与一の与は10という意味なのだとか。

与一を調べて、初めて知りました。