Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

海部城

海部城本丸

 鞆浦にあることから、別名鞆城とも呼ばれ、海部周辺に勢力を持っていた海部友光によって永禄年間(1558-70)の末期、もしくは元亀年間(1570-73)に築城されたが、築城以前にも鞆城や島城と呼ばれた城砦があったという。

 海部氏の出自は不明だが、伝説上の人物である鷲住王の子孫とも、海部郡司の末裔とも伝えられる。ただ、海部を名乗る前には藤原を姓としていたことから、真偽はともかくとして、藤原氏流と自称していたのは間違いないようだ。

 いずれにしても、古代からの開発領主であることはほぼ確実で、中世には海部刀と木材の輸出で力を蓄え、中国や朝鮮とも交易するほどだった。

 戦国時代中期から後期にかけては、海部氏は、阿波から畿内に勢力を広げた三好氏と結び、阿波南部の重臣として三好氏を支え、この頃に之親の子友光が、それまでの本拠だった吉野城から海部城へと居を移している。

海部城本丸東側の石垣付近には桝形らしき構造もあった

 しかし、元亀2年(1571)に有馬へ療養に向かう途中であった、土佐の長宗我部元親の弟島弥九郎親益が、風浪を避けて城下の鞆浦、もしくは那佐湾に停泊した時、これを襲撃して郎党30名と共に討ち取ったため、激怒した元親は阿波に侵攻を開始し、天正3年(1575)に城は陥落した。

 一説には、海部氏が、元親に滅ぼされた土佐国東部の安芸氏と誼を通じていたため、その旧臣が海部家中におり、友光に襲撃を勧めたという。また、築城時期もこの襲撃の前後であるため、襲撃以前から元親の北上を警戒して築城し、その警戒の延長で襲撃したか、襲撃後に復讐を恐れて築城したとも考えられる。

 海部城落城以降の海部氏の動向は不明で、友光は紀州の縁戚を頼り、出陣中だった子の吉清は美馬に落ち延びたと伝えられるが、はっきりとしない。ちなみに、元首相の海部氏は名古屋出身だが、この海部氏の流れだそうである。友光の弟親政が、海部城落城時に大坂方面にいて難を免れ、その子孫が後に尾張藩に仕えたといい、元首相はこの子孫という。

海部城本丸切岸の2段石垣の下段は後世の谷積かもしれない

 長宗我部氏が支配した海部城は、元親の弟香宗我部親秦が城主となり、阿波攻略の東方面の重要拠点となったが、天正13年(1585)に阿波征服が成った直後、秀吉による四国征伐が始まり、元親は土佐一国に戻され、阿波は蜂須賀氏に与えられた。そして、蜂須賀氏は、この城を阿波九城のひとつとして支配拠点に定めている。

 城を守る城番は、当初は5千石で中村重友が務め、後に子の重勝が継いだが、重勝が慶長3年(1598)に大西城へ転じたことから益田一正へ代わり、やがて城自体が元和元年(1615)の一国一城令寛永15年(1638)の古城破却の命令で他の支城と共に廃城となったため、城番も廃された。

 ちなみに、徳島藩で支城の廃城が元和の一国一城令より遅れたのは、各地に封じられた重臣の力が強かったためといわれている。城番であった一政の子長行は、自ら支藩の藩主になろうと画策したため、正保3年(1646)に斬首されているが、この海部騒動と呼ばれる一連の動きも、その証左のひとつだろう。

海部城本丸の基壇

 城は、昔は島だったという勾配の急な30mほどの小山に築かれ、小山北側の最高部に本丸を置き、南北方向へ郭群を延ばした海城である。大きな郭としては、最高部の本丸と次段、そして北側に比較的大きな削平地があり、本丸南側にも4段の段郭が見られたが、城の規模としては大きくはない。また、深い堀切を介して南東側に独立的な2段の削平地があり、これは出丸であったのだろう。

 本丸には、大きな範囲に基壇があり、石垣でやや高くなっているが、これは建物があった遺構だろうか。このほか、石垣が所々に見られるが、築かれた年代が当時のものか判断しにくかった。

 国道55号線から海部川右岸を東進した先の小山が城跡で、津波の際の避難場所に定められているため、いくつかの方向から城へ登ることができる。自分は東側の集落から登ったために見落としたが、西側の登山口付近には城址碑もあるという。ただ、案内板の類が無いのが残念である。

海部城次段

 

最終訪問日:2019/11/10

 

 

海部の集落から向かったため、細い道を登山道や案内を探しながら、城跡の山を2周ぐらいしましたが、海部川沿いに走ったらびっくりするぐらい簡単な道でした。

よくあることではあるんですが、力が抜けますね笑