豊臣秀次の養父として有名な、三好笑岩こと康長の居城。
岩倉城の歴史は古く、鎌倉時代の阿波守護小笠原長房が、文永4年(1267)に平盛隆を討った功で三好郡と美馬郡を得た後、本拠として築いたのが最初という。ただ、発掘調査では、12世紀後半の遺物が出土しており、守護所設置以前から何らかの集落があったようだ。
この阿波小笠原氏は、阿波国内に一族を配して勢力を扶養したが、南北朝時代には、阿波に進出してきた細川氏に敗れ、庶家が細川氏の家臣として血脈を残した。これが後に三好氏や一宮氏となって行くのだが、この頃の岩倉城の事跡はよく分からない。
発掘調査では、この時期にも継続して遺物が出ており、何らかの城か集落が存在したようだが、戦国時代の三好康長が本格的な築城をするまでは文献上に登場せず、詳細は全く不明という。とは言え、康長が本格的に築城した正確な時期もこれまた不明で、一説には永禄年間(1558-1570)と言われているが、何かと不詳な点が多い城である。
康長という人物は、幼少で家督を継いだ三好長慶を支え、その有力一門として長慶の覇権確立に貢献した武将だが、成長した後の長慶が畿内に在ったため、康長は阿波との関わりが薄い。岩倉城が築城されたという永禄期には、同5年(1562)の教興寺の合戦に参陣し、討ち破った畠山氏の河内高屋城へ入城しており、以降も畿内での活動が見えることから、岩倉城は築城間も無くから康長の嫡子康俊が守っていたものと思われる。
永禄7年(1564)に長慶が病死すると、求心力を失った畿内の三好党は分裂し、さらに信長の上洛によって中央政界の主役の座からも追われ、本拠地の阿波でも、長慶の甥長治の統治が乱れるなど、三好家中にはゴタゴタが続く。
そんな中、岩倉城を守る康俊は、一門ながら三好家に先は無いと悟ったのか、天正3年(1575)かその翌年から、長宗我部元親が阿波へ触手を伸ばして来ると、同7年(1579)夏に西の重清城が再落城したのを見て元親に臣従した。
さらに寝返るだけに留まらず、康俊は共に寝返った近隣の三橋兄弟と語らい、三好家臣森飛騨守へ三好氏に味方したい旨を密書で届け、これを信じて同年12月27日に脇城下へ来援した飛騨守や川島惟忠ら三好勢を奇襲し、大いに討ち破っている。これは脇城外の合戦や岩倉合戦と呼ばれるが、この戦いで吉野川流域に地盤を持つ多くの三好家臣が討たれ、三好氏の一層の勢力減退を招いた。
その後、信長に従った康長が、四国遠征の先陣として阿波に入り、降誘工作を始めると、康俊を含めた旧三好家臣らは再び三好氏に帰参したが、その遠征兵力を大坂に集めていた段階の天正10年(1582)6月2日に本能寺の変が起き、四国遠征は幻に終わってしまう。すると、当然ながら、元親は阿波統一を加速させ、海岸沿いを北上した長宗我部軍が、打って出た十河存保の軍勢を同年8月28日に中富川の合戦で破り、翌月21日には勝瑞城を開城させた。
岩倉城もこれとほぼ同時期に攻撃を受け、康俊は籠城したものの、兵力の差は歴然であり、討死したとも、開城して讃岐もしくは河内に逃れたともいう。そして、岩倉城を得た元親は、一門の長宗我部掃部頭、もしくは比江山親興を城に入れ、隣接する脇城と共に吉野川中流域の拠点とした。
しかし、天正13年(1585)に秀吉による四国征伐が始まると、羽柴秀次の軍と讃岐から南下する黒田孝高の軍に攻められている。特に孝高軍からは、高楼を組んで城内に大砲を撃ち込まれたという。そして、岩倉城は脇城に先駆けて開城降伏し、岩倉城落城を受けた脇城も間もなく開城した。この時点で伊予、讃岐、阿波の戦線で大勢が決し、事実上、四国征伐は終結を迎えたのである。
戦後、阿波の大半は、蜂須賀正勝から家督を継いだ家政に与えられ、家政は徳島城を築城すると共に脇城など領内9ヶ所に重臣を配置した。これがいわゆる阿波九城である。これに伴い、岩倉城は隣接する脇城に役目を譲り、廃城となった。
城は、かつて六坊の城と呼ばれ、東西南北の4坊と丹波ノ坊、久保ノ坊という6つの郭があったとされるが、どの程度の規模だったのかははっきりとしない。本丸南側のやや突き出た部分を丹波ノ鼻と呼んだことから、本丸一帯が丹波ノ坊、北東の田上の観音堂辺りを東ノ坊の別名観音坊とするのはほぼ間違いないほか、西の谷向こうの高地にかつて無住の庵と庭園があり、それを西ノ坊の別名宝冠坊の元となった宝冠寺跡と推定することができるが、北と南と久保の3坊の具体的な場所は不明である。
いずれにしても、現在の本丸周辺からは想像できないほど大きい規模だったのは、間違いないようだ。
一説には、岩倉城の西の岩倉西ノ城の大木ノ鼻と脇城の大木ノ丸を、大城戸からの名と考え、岩倉城を中心に南面を吉野川、東西を木戸が囲った惣構の城と見ることができるという。言わば、一乗谷城や平氏の一ノ谷の陣のような形で、これが本当だったとするならば、周囲一帯は大大名の本拠地規模の城砦群ということになるが、どうだろうか。
無養街道と呼ばれた吉野川北岸の道は、今は県道12号線となっているが、その道沿いに城の北にある真楽寺の案内が出ている。城自体は脇町自動車学校の後背にあるのだが、城へ入って行く道は北にあるため、その真楽寺の案内に従って北向きに折れ、川沿いを北上して行く。すると、真楽寺の案内と共に岩倉城の案内も出ており、後は狭い道を案内に従って進むだけで、城へと到着することができる。
遺構として残っているのは、本丸と墓地になっている北側の郭、建物の建つ本丸南側の削平地、本丸東側下の帯郭のような削平地で、帯郭のような郭は本丸西側下にもあるらしいのだが、確認できなかった。本丸と北側の郭の間には堀切があり、本丸には三好康俊のものと伝わる墓もあるが、これら以外に目ぼしい遺構は無いようだ。
徳島道造成の際に発掘調査が行われ、遺構も確認されているのだが、往時は相当の大きさがあったと思われる城でもあり、もう少し広範囲に調査が進むことを期待したい。
最終訪問日:2011/5/14
岩倉城と脇城というのは、戦国時代末期の阿波の歴史には欠かせない城ですから、かなり前から訪れたかった城でした。
脇城と岩倉城を同時に訪れることができたので、かなり満足な旅でしたね。