Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

松山城 (伊予)

 天守の現存する12城の内のひとつで、日本三大連立式平山城にも数えられる城。

 現在の松山市街地は、中世は伊予守護の河野氏の本拠地で、道後温泉近くの湯築城がその居城であった。その城跡は道後公園となっているが、松山城からもはっきり確認できるほど近い。その頃、松山城のある山は、勝山や味酒山と呼ばれていたが、この近さから、南北朝時代湯築城攻撃の陣が張られたこともあったという。

 天正13年(1585)の秀吉による四国征伐河野氏が没落した後、伊予は小早川隆景に与えられたが、2年後の九州征伐の後に隆景が筑前へ移されると、南の松前城に栗野秀用が入り、秀用が文禄4年(15959)に豊臣秀次連座して改易となった後には、加藤嘉明が入城した。

 嘉明は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で東軍に属して功を挙げ、松前城を守った佃十成などの家臣もまた、西軍に呼応して攻め寄せた村上水軍や河野旧臣らの軍勢を撃退したことから、これらの功によって戦後に嘉明は加増されることとなる。

松山城本丸から本壇の天守と小天守

 この加増により、領地の大きさに比して松前城が手狭となったことから、嘉明は新城の築城を同7年(1602)に開始し、翌年に一応の完成を見て入城した。これが松山城で、城のある勝山に赤松が多かったことから、完成時に松山と名付けられ、それが城名にもなっている。

 その後、嘉明は寛永4年(1627)に会津へ転封となっているが、この頃まで松山城とその城下では工事が続けられていたらしく、嘉明自身は加増転封を1度断ったといわれるほど、こだわりがあったようだ。

 嘉明に代わって松山城に入部したのは、前会津藩主蒲生忠郷の弟忠知である。忠郷が、嗣子の無いまま没したことで蒲生家が断絶となるところを、母が家康の娘振姫ということで本家相続を許されたのだが、東北に睨みを利かす上で重要な会津からは移され、嘉明と入れ替わって松山へと入封した。

 忠知は、松山城とその城下を完成させるなど、治績は安定していたのだが、会津時代から続く家臣同士の対立に心を砕き、その心労がたたったのか、寛永11年(1634)に嗣子無く没してしまい、結局、蒲生家は断絶してしまう。

松山城天守から本丸と松山市

 代わって翌年に松山城へと入部したのは、久松松平定行で、入部後しばらくすると城の改修を始め、寛永19年(1642)には五層六階の天守を三層四階に改めた。だが、この天守天明4年(1784)に落雷で焼失してしまい、藩では再建を計画したものの、江戸時代中期以降の諸藩がそうであったように、松山藩も相次ぐ飢饉などで財政難に見舞われており、ようやく12代勝善の時の安政元年(1854)に天守の再興を果たしている。

 また、この2代後の定昭の時に維新を迎えるのだが、定昭は老中就任の直後に大政奉還となってしまったため、朝敵とみなされ、恭順の姿勢を示したものの、維新後しばらくの間、城は土佐藩兵の管理下に置かれた。

 城は、維新後の破却は免れたが、明治3年(1870)とその翌年に相次いで二ノ丸と三ノ丸が焼失し、昭和に入ると、放火や戦災、失火で小天守や隅櫓、門なども焼失してしまった。だが、昭和中期からの市の努力で、ほとんどが木造復元されており、現在は、現存する天守を中心に、重厚な郭群を持つ城の姿へと戻っている。

 松山城は、山頂に細長い本丸を持っており、登ってみると解るのだが、132mという標高から連想する広さよりも、かなり広い。これは、勝山にはもともと2つの峰があり、その峰を削って間の谷を埋め、台地として造成したためであるという。

松山城縄張図

 この広い本丸の北西部には、城の中心となる大天守と小天守が置かれ、隅櫓を多聞櫓で連結して本壇とし、削平地と区画している。そして、その背後は断崖をもって天然の城壁としていた。この辺りは、地形を活用した山城らしい構造となっている。

 本丸以外では、本丸の南端から東に長者ヶ平、西にはやや下って中腹に二ノ丸、そして南西麓に三ノ丸を擁し、三ノ丸の周囲には堀も残っていた。また、北の搦手には北郭という郭を設け、東麓にも東郭があり、一部の石垣などが残っているという。

 訪れた時は、観光客がロープウェイで大量に運ばれて行く中、登山道を歩いてみたが、標高相応の長さはあったものの、道自体はそれほど峻険な道ではなかった。そのまま大手門から太鼓門へ向かって歩いていくと、本丸の入口を防衛する複雑な道となっており、ここはなかなか見応えがある。

 そこから本丸へと入ると、一転して近世城らしい広い空間が視界に広がっており、松山市街の眺望と合わせ、なかなか良い雰囲気だった。そして、本壇と呼ばれる最も重要な区画は、嘉明が自らの知識と経験を注ぎ込んで動線と防御施設を複雑に組み合わせており、城好きには必見と言えるほどの造形である。この辺りは、さすがは日本三大平山城のひとつ言え、防御構造が成熟し切った時代の城郭というものを味わえる城だった。

 

最終訪問日:2004/9/11

 

 

二ノ丸が工事中で入れなかったので、次回に訪れる時は、二ノ丸を見学して、さらに違う登山道から登ってみたいですね。

壮大なお城に加えて、市電に乗ってすぐの温泉。

松山ほど、お城好きの旅行に適した場所は無いですね。