Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

新見陣屋

陣屋跡に建つ思誠小学校の校門

 江戸時代の新見は、初期は備中松山藩支配下にあり、高梁川を利用した水運で栄えていた。新見が藩の首府となるのは、元禄10年(1697)になってからで、津山藩支藩であった宮川藩関氏が新見に移って来てからある。

 津山藩は、有名な森蘭丸成利の弟忠政が初代藩主として慶長8年(1603)に立藩した藩だったが、忠政の子が早世してしまった為、甥で娘婿でもある関成次の子、つまり外孫の長継が養嗣子として迎えられ、以降は関氏系森氏が系譜を継いだ。この養嗣子となった長継は、2人の弟を持っていたほか、自身には24人もの子があったといわれ、森家の血脈の枝葉を大いに広げた人物であった。

 この長継の治世下において、弟関長政に1万8千石を分知して支藩宮川藩を立藩させたことにより、後の新見藩へと繋がる。ただし、長政の跡継ぎには長継の子長治が養子として入り、もうひとりの弟関衆之にも同じく衆利が入った為、結果的に長継の子が弟達の系統を継ぐことになった。

 一方、津山藩嫡流はというと、嫡男の忠継は38歳で早世してしまった為、忠継の子長成が成人するまで忠継の弟長武に家督を引き継ぎ、長成成人後に改めて長武から家督が譲られている。しかし、長成は子を成さず元禄10年(1697)に早世してしまい、末期養子として関衆之の養子となっていた前述の衆利が家督を継ぐのだが、衆利が将軍拝謁の為に江戸へ向かう途中で発狂した為、森家は改易となってしまった。この発狂理由は、犬小屋の管理不行き届きを問われたことによる生類憐れみの令への批判を、幕府を憚って発狂として処理したものともいう。

僅かに残る石垣の痕跡

 このようにして、津山藩は改易されることとなったのだが、この時点で子沢山の長継は未だ存命であり、織田氏時代より武功の聞こえた家ということもあって、幕府は温情処置を採った。長継の隠居料だった2万石、長治が継いでいた宮川藩1万8千石、そして長武時代に分知されていた長武の弟長俊の新田藩1万5千石はそれぞれ安堵され、西江原藩、新見藩、三日月藩として存続が許されたのである。こうして森家は3つに分かれたのだが、いずれも子沢山の長継の子が継承しており、家督争いの難しさがあるとは言え、武家の子沢山というのは血脈を残す上で強みになるということの、解り易い事例かもしれない。

 新見に入封した長治は、高梁川から程近い諏訪山と呼ばれる丘陵部に元禄10年(1697)から翌年にかけて陣屋の工事を行い、新見藩の政庁とした。以来、関氏は維新まで移封することなく新見を領したが、表高に比べて実収入が少なく、藩財政は常に危機的状況にあったという。このような状況から、宝暦5年(1755)に3代藩主政富が藩校を設立し、孟子の言葉から思誠館と名付け、藩士の教育を熱心に進めた。この思誠館の名は、陣屋跡地に建つ思誠小学校の名として、今も受け継がれている。

新見北高校と思誠小学校の間にある段郭のような細い削平地

 維新後、陣屋は明治6年(1873)の廃城令で廃され、跡地は文教施設の敷地となった。現在も、陣屋の遺構自体は僅かに残っているのだが、新見高校北高地と思誠小学校の敷地として使われているため、残念ながら気軽に散策というわけにはいかない。見える範囲では、高校と小学校の間や、小学校の東南側に石垣などを確認することができる。

 このほか、陣屋跡の道路を挟んで向かい側には、城山公園というのがあるが、もともとは常山と書いたらしく、読みはジョウヤマで、新見陣屋が新見城と呼ばれることもあったことから城の字が当てられたようだ。これも陣屋があったことの名残と言えるだろう。この公園一帯は、厳密に言えば政庁としての陣屋の範囲ではないようだが、長治が入部した際の仮御殿が建てられた場所でもあり、大きく見て陣屋の一角に含まれていたと思われる。公園造成によって過去の姿は窺えず、建物の類があったのかは不明だが、公園としては不適な段郭らしき小さな削平地などはこの頃の名残だろうか。少なくとも政庁の隣接地という保安上の理由もあり、もし活用されていなかったとしても、立ち入りが制限されていたの場所であったのは間違いないだろう。

 

最終訪問日:2011/10/23

 

 

隣の城山公園と合わせて、川沿いの平野部に突き出した丘陵で、しかも2つの川の合流点があり、北西から南西に掛けては川が堀になっています。

陣屋が構えられる前は、お城があったんじゃないかな~

めちゃくちゃ適地なんですけどね。

ただ、色々資料を探したんですけど、そういう記述はあれませんでした。

謎ですね。