Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

三田城

三田城址碑

 戦国時代末期から江戸時代の摂津国有馬郡の中心となった平山城の崖城。

 三田周辺は、南北朝時代室町幕府草創の功臣である赤松円心則村の四男氏範が有馬郡へ進出し、三田城から北へ4km弱の東野上城を築いて本拠としたのが有馬郡の首邑としての始まりである。氏範は、後に父や兄たちと袂を分かって南朝に属したが、その後も有馬郡は赤松領として概ね認められていたようだ。そして、赤松氏の庶流である有馬赤松氏が入部し、所領とした。

 この有馬赤松氏は、円心の三男則祐の子義祐が、山名氏が幕府に対して叛乱を起こした明徳2年(1391)の明徳の乱に功を挙げ、有馬郡有馬荘の地頭職を与えられたことに始まる。ただ、赤松氏累代の守護国である播磨、備前、美作とは地理的に遠いということもあって、嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱から始まる赤松氏の嫡流滅亡と復興、そして家中の混乱という状況を背に、次第に摂津の守護であった細川氏配下の国衆や、幕府の奉公衆としての性格を強めて行き、名乗りも有馬を称するようになって行ったようだ。当主としては、三好長慶の軍に参陣して討死した村秀や、他の摂津の国衆と共に信長の配下となった国秀の名が知られるが、室町中期から戦国時代の辺りは系図も不明確で、事績としてはやや朧気である。

今も水を湛える内堀

 信長が元亀4年(1573)に将軍足利義昭を追放した後は、摂津一国の差配を任せられたのは荒木村重で、国秀もそのまま村重に付けられた。しかし、天正3年(1575)に謀反の疑いを掛けられ、自刃してしまう。これによって有馬氏の嫡流は途絶え、村重の小姓出身とも親族であったともいう荒木重堅が、三田を与えられて入部した。ただし、重堅には異説もあり、すでに信長配下の武将として、この頃にはすでに秀吉に付けられていたともいう。

 天正6年(1578)に村重が謀反を起こした際、三田城は信長軍に攻撃され、落城したとも降伏開城したともいわれるが、周辺に付城が築かれていることから、何らかの戦闘があったと見られる。その後、村重に代わって摂津を任せられた池田恒興の属城となり、天正10年(1582)の本能寺の変の後には後の豊臣秀次である三好信吉に譲られた。そして、同年冬には、近江より山崎片家が入部することとなる。

 以上が三田城の築城前史であるが、この頃に存在したはずの車瀬城という三田城の前身の城については、いくつかの説があって通説というものは存在しない。上に挙げた武将たちそれぞれに築城の可能性があり、有馬氏時代に村秀が築城したとも、有馬庶流の則景が居館を置いたのが最初とも、重堅が金心寺を城郭化したとも、片家が家臣の車瀬政右衛門に命じて縄張し、築城したからともいう。確実なのは、後の三田城の場所は大寺院の金心寺の境内だった事で、歴代の支配者がその寺院と崖上という立地上の優位を戦略的に計算に入れ、実際に使用もしたことが、築城説の混乱に繋がっているのかもしれない。

九鬼藩が操船訓練をしたという御池は三田大池という名前になっている

 三田に入部した山崎氏は、片家の子家盛が慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で西軍に属したものの、三成の挙兵を家康に通報したことから因幡若桜へ加増転封となり、代わって前述の則景の孫則頼に三田が与えられ、淡河城から移ってきた。その後、則頼は同7年(1602)に病没し、別家を建てていた子豊氏が相続した為、福知山藩8万石の一部となって城は一旦廃城になったようだ。

 元和6年(1620)の有馬氏の転封後は、6年の天領を挟んで能見松平重直が入部し、寛永10年(1632)には、前主九鬼守隆没後の家督争いによる懲罰的移封によって、その五男久隆が3万6千石の九鬼宗家として入部することになるのだが、九鬼氏の象徴でもあった水軍とは無縁の内陸の地であり、さらに家格も無城となった為に、三田城を修築したものの城とは名乗れず、三田陣屋と称した。ただ、これも江戸末期に城主格となったため、非公式ではあるが三田城と呼ばれたようだ。こうして三田城は九鬼氏が240年近く統治し、明治6年(1873)の廃城令で廃城となった。

 城は、武庫川に迫る舌状の台地に築かれており、北から北東に掛けては、その崖と武庫川の水流を防御力の要とし、武庫川沿いの街道筋を扼す要害の地に在る。九鬼氏時代の絵図では大手を東に開いており、真っすぐ延びる桜馬場から内堀と大池で動線を狭めた先の大手門をくぐった場所に陣屋があった。その場所は、現在の三田小学校で、学校の敷地がそのまま陣屋跡である。

三田城縄張図

 陣屋から北西に続く二ノ丸は北東側に連なる場所で、現在の有馬高校の西端部にあたり、二ノ丸から空堀を隔てた東には御茶屋という区画があった。この場所の東には水堀と空堀が穿たれており、防衛上重要視されていたのだろう。その空堀の更に東の先には、古城と記された場所があり、ここは山崎氏時代の天守跡であったといわれ、九鬼氏としては、行政施設としての陣屋とは別に、御茶屋から古城を含む現有馬高校中央部から東部に掛けてを本丸的な位置付けにしていたと思われる。また、その更に東は空堀で隔てられた区画があり、それが現在の古城浄水場であるが、ここも主たる郭のひとつだったようだ。

 現在の三田城は、前述のように三田小学校と有馬高校の敷地になっているが、その間にある内堀は健在である。また、操船技術を忘れないために船の修練をしていたという御池は、三田御池として健在で、今でも水を満々と湛えていた。この内堀と御池に挟まれた、陣屋の大手門跡付近となる小学校の校門に三田城址碑があるほか、内堀沿いの道の有馬高校側にも説明板が建てられており、遺構はあまり無いものの、古城の雰囲気が感じられる城である。

 

最終訪問日:2022/10/18

 

三田市には時々行くんですが、旧市街に行ったことがほとんど無く、ちょうどよい日帰りツーリングの目的地として選びました。

遺構自体は少ない城ですが、縄張の痕跡が明確で、ぶらぶら散策して楽しい城でしたね。

ただ・・・学校近くなので、不審者に見間違われそうなのが怖かったですが笑