Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

鶉野飛行場跡

真っすぐ伸びる鶉野飛行場滑走路

 太平洋戦争開戦後に造成された、パイロット養成の為の飛行場跡で、正式名称は姫路海軍航空隊基地という。

 鶉野飛行場建設は、当初の計画では、戦闘機を生産していた川西航空機の、組立工場建設による資材搬入用と試験飛行用の滑走路であった。昭和17年(1942)9月の工場建設準備に伴って飛行場も建設準備が開始され、加西郡九会村と下里村の鶉野、中野、下宮木の民家と国民学校が立ち退いたのだが、この計画に目を付けたのが、損耗する航空隊員の大量育成を目的として、全国に航空隊を増設しようとしていた海軍である。こうして、同年12月に姫路海軍航空隊基地が創設された。

 実際の飛行場建設は、翌年3月から始まり、農地や大小14の溜池を整地して9月にはほぼ完成し、一部施設で使用が開始されてはいたが、同年10月1日に姫路海軍航空隊が開隊し、これによって名実共に航空隊基地となっている。また、現地説明板やパンフレットによると、同19年(1944)8月には隣接して組立工場が落成し、同年12月頃から紫電紫電改をそれぞれ446機と46機製造したという。

鶉野飛行場説明板

 戦争末期になると、工場と飛行場のセットという目立つ存在でもあったが故に、米軍の空襲の標的となり、昭和20年(1945)3月19日、7月24日、7月30日と3度、もしくは米軍側に記録の無い7月25日を含めて4度の空襲があった。また、姫路海軍航空隊からも白鷺隊と名付けられた特攻隊が編成され、鹿児島の串良基地から飛び立ち、63名が散っている。そして、姫路海軍航空隊は同年5月5日に閉隊となり、基地は第五航空艦隊に編入された。

 戦後、10月23日に米軍が基地に進駐し、兵器や弾薬の処理が行われたが、それと並行して食料増産と帰還者受け入れの為に緊急開拓事業が実施され、基地の敷地に約100世帯が入植したという。滑走路は米軍の進駐が続けられ、進駐解除後は南側の4分の3が防衛庁へと払い下げられ、半世紀経った平成28年(2016)になって加西市に払い下げられた。

展示されている紫電改と九十七式艦上攻撃機の実物大模型

 飛行場には、幅60mの1200m滑走路のほか、転圧のみの幅60m、長さ1500mの滑走路があり、格納庫、掩体壕、兵舎、庁舎、計6ヶ所の対空機銃などがあったという。また、複数の防空壕が今でも残されており、弾薬庫跡や銃座跡、詰所跡などと共に見学が可能である。

 現在の鶉野飛行場は、市道に分断されてはいるが、舗装はそのまま健在で、真っすぐと延びた滑走路の姿を留めていた。滑走路の北東部分には、「soraかさい」という拠点施設が整備され、製造されていた紫電改と、基地で運用されていた九十七式艦上攻撃機の実物大模型が展示されており、これは日本唯一のものである。

 

最終訪問日:2022/5/4

 

 

加西に飛行場があったのは何となく知っていましたが、整備されたというので行ってきました。

オープン間もなくということもあり、予想通り人多数。

コロナ禍ということもあって、予約しないと展示場には入場できなかったんですが、外からでも紫電改の実物大模型を見ることができたので、満足です。

そのほか、やや距離はありますが、徒歩で行ける範囲に防空壕や銃座、掩体壕などもあり、見所も多いですね。