Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

平井山本陣跡

平井山本陣跡の主郭部

 天正6年(1578)から同8年(1580)にかけて行われた三木合戦の際、秀吉は包囲網形成のために周辺に無数の付城を築かせ、自らは三木城の見える平井山に本陣を張ったが、平井山には今でもその陣所の跡が残っている。名前を平井山本陣跡としたが、国指定史跡としての正確な名前は、平井山ノ上付城跡という。

 三木を本拠として東播8郡に影響力を持っていた別所氏は、織田氏の勢力が播磨に及ぶと、当初は織田氏に協力的な姿勢を見せ、織田軍の中国方面軍司令官であった秀吉の指揮下に入り、織田家の播磨平定に尽力していた。しかし、対毛利戦について話し合った加古川の軍議で、秀吉が別所氏を尊重せず態度が傲慢であったとして、一転して毛利方に転じ、その影響下にあった中小豪族と共に織田家に対抗することとなる。ただ、これには、別所家中において発言力の強かった別所吉親に対し、毛利方から調略があったようだ。

 開戦後、緒戦で三木城の強固さを痛感し、力攻めでは落せない事を悟った秀吉は、周辺の支城をひとつひとつ潰して三木城を孤立させる作戦に出た。これにより、別所方は補給路を失い、「干殺し」とも呼ばれた籠城戦は、主に毛利からの補給路を確保しようとする別所方と、それをさせまいとする秀吉軍の戦いという様相を呈するようになって行く。

 この籠城戦の間には大きな合戦が2度あったが、この平井山周辺も戦場となったことがあり、秀吉の本陣を別所方が襲撃しようとした天正7年(1579)2月の合戦がそれである。この戦いは、別所方にとっては乾坤一擲の戦いであったが、当主長治の弟治定が討死するなど、有力な将兵の多くを失って敗退し、討って出る余力を一層失う結果となった。その後、別所方が兵糧攻めの重囲を打開できぬまま、長治や吉親ら別所一族の自刃を条件として翌年1月に開城降伏を受け入れ、別所氏は滅んだ。

三木城に対する包囲図

 現在の平井山には、竹中半兵衛墓所の近くから登る遊歩道と、本陣跡の近くまで入ることができる車道がある。平井山の山頂付近は、土塁の跡と思われる僅かに盛り上がった土盛があり、本陣跡の案内板が建ち、背後は断崖になっていた。遊歩道のある方向には、人口的に造られたと思われる平坦な地形が数段残っており、土塁の残骸も確認できるが、どこまでが陣城の跡かはっきりとは確認できない。また、やや下った場所にもかなりの削平地があり、陣の跡がそのまま残ったものか、あるいは跡地をうまく利用して改変されたものなのか分からないが、いずれにしても当時は陣の一部だったのだろう。

 前述の平井山の合戦では、秀吉軍から別所方の軍勢の動きが丸見えであったことが勝因のひとつになったが、この平井山の本陣跡からは、三木城を始めとした市内が一望でき、指揮を執りやすかっただろうことがありありと実感できる。それほど、三木城に対する本陣としては、もってこいの地勢だ。

 戦国史では比較的有名な平井山だが、今でも地元での認知度は高い。三木合戦の歴史をあまり知らない人でも、平井山の名を知っている人は多く、歴史上で平井山の名を知っている人間からすると驚くぐらいだが、なんのことはない、山にぶどう農園があって、ぶどう狩りで有名なだけである。だが、そのおかげで三木市内にも平井山の案内が多く、訪れるのは比較的簡単だ。

 

最終訪問日:2005/1/19

 

国の史跡に指定されて以降、訪れていないんですが、何気なく平井山に立ち寄った際に、見違えるほど整備されていて驚きました。

なかなか機会が無いですが、改めて半日ぐらい掛けて、じっくりと散策したいですね。