
小磯城に関して伝わる事跡は少なく、文明8年(1476)に上杉氏に対して叛乱を起こした長尾景春の家臣越後五郎四郎が、この城に籠もっていたとされ、翌同9年(1477)年3月に太田道灌に攻められて落城したというのが、唯一の事跡という。
長尾景春の叛乱の契機は、父景信の死後に父が就いていた関東管領上杉氏の家宰職を景春が与えられなかったことによる。
この家宰職は、関東管領上杉氏を家臣とする鎌倉公方足利氏から見れば、陪臣筆頭というべき職に過ぎない。だが、足利氏と上杉氏が争っていたこの頃の状況では、一方の陣営という意味で両者は対等の立場にあり、幕府に近かった上杉氏は、幕府の代行として関東一円に号令を掛ける事ができる立場にあったため、当然ながらその家宰職の権力も相当なものがあった。この権力の強さに比例して、様々な軋轢があったのもまた、想像に難くない。
景春の白井長尾家は、父景信のみならず祖父景仲も家宰職を務めていた名門で、関東における影響力も大きかったことから、景春の叛乱に同調する者も少なくなく、景春の軍勢によって対足利戦線の拠点であった五十子の陣が一時は陥落するほどであった。

これに対し、崩れかけた戦線を大いに支えたのが、扇谷山内定正の家臣太田道灌である。道灌は、景春とは母方の従兄弟にあたるものの、景春の叛乱への誘いを断って景春討伐に活躍するのだが、その道灌の反撃の最初期に陥落したのが、この小磯城であった。
しかし、この落城以降の城の歴史は不明となる。相模湾に丘陵地が突き出しているという地形から、城の立地場所としては申し分ないのだが、戦国時代に入ると、北条氏の支配によって相模の情勢が安定したというのもあって、防衛拠点として使われることはなかったようだ。
廃城の時期は不明だが、戦国時代に存続していたとしても、小田原からの連絡網として烽火台や監視所などが置かれた可能性があるという程度だろう。

小磯城の候補地は複数あり、この大磯城山公園もその有力候補地なのだが、比定地とするほどの決め手は無いようだ。明治時代に三井別邸の建設に伴って開発の手が入っているためか、明確な遺構らしきものは見当たらず、発掘調査すらされていないのかもしれない。
ただ、公園の削平地などを見れば、別荘が建てられていた所が主郭と想定できるのはもちろんのこと、堀切のような地形や帯郭のような空間といった、別荘地としては不要に感じる部分が僅かに見て取れ、小磯城ではなくとも、その出城や対塁、もしくは前述のように北条氏時代の監視所など、少なくとも何らかの城砦はあったように思われる。
大磯城山公園自体は、広場あり急坂あり階段ありという散策に適した公園で、歩き甲斐のある公園だった。展望台からは、相模湾の水平線や小田原方向の市街地、富士山までを見渡すことが可能で、訪れた日も霞んだ富士山が辛うじて見え、意外に良い眺望を味わうことができる。

最終訪問日:2013/5/18
大磯の小磯城という風に、地名を並べるとちょっと耳慣れないんですが、徳島の大歩危小歩危のように、昔は恐らく、周辺の海岸地形から大磯と小磯という地名が隣り合って並立していたんでしょうね。
大磯だけが別荘地として大きくなってしまったので、大磯町内の東小磯や西小磯という地名のように、今では小磯が大磯に包含されているようなイメージになってしまっていますが。
この辺りは、地元の須磨あたりの海岸線に近い印象で、妙に親近感がありました。