Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

旧草津川

周囲のマンションの低層階よりも高い旧草津川の流路と堤防

 かつては教科書にも載るほど天井川として有名だったが、流路が変えられて天井川ではなくなり、その跡地が俗に言う旧草津川となった。ちなみに、滋賀県の利用計画などでは、草津川廃川敷地と呼ばれている。

 草津川は、鶏冠山の西麓、オランダ人技術者デレーケによって明治22年(1889)に割石積みの堰堤として大津市桐生町に造られたオランダ堰堤に源流を発し、そこから北流して美濃郷川や金勝川を合わせ、かつては金勝川との合流点辺りから北西方向へ流れて琵琶湖へと注いでいた。しかし、天井川であるために水害の被害が大きくなりやすく、周辺住民は長い間、被害や不安に悩まされていたという。

 そこで、昭和46年(1971)から平地河川化が徐々に進められ、平成14年(2002)6月14日に、金勝川の流れを延ばすような形で合流点から西方向へ新しい放水路が設けられた。これにより、約15kmだった草津川の長さは13.17kmへと短くなったが、川幅が広く取られたこともあって、流域面積は35.8km2から48.3km2へと広がり、河床の高さと共に流量についての不安も和らいだ。

 流路変更後、それまでの草津川の流路は当然のことながら廃川となったのだが、JR線と国道1号線付近は歴史的に馴染みの深い天井川の姿のまま残され、河口域もビオトープとして活用されており、それぞれかつての面影を留めている。

 このように今も天井川の姿を残す草津川であるが、天井川としての歴史は浅く、江戸時代中頃から天井川化したものという。そこから約100年ほど経った明治19年(1886)には、天井川をくぐる最初のトンネルが完成しており、相当短い期間で立派な天井川へと成長したようだ。

 膳所藩の寒川辰清の残した文章には、平時は水が無く雨が降ると必ず水が出る急流とあり、大雨が降る度に氾濫し、上流域の脆い花崗岩の土砂を大量に運んできたのだろう。草津川の旧称の砂川という名前から想像すると、大雨で砂を運び、普段は砂が目立つような水のほとんど無い川という、草津川の性質が理解しやすい。

 このように氾濫を繰り返して土砂を運んでくると、川は土砂によって河床が上げられることでより氾濫しやすくなってしまうのだが、住民は氾濫を予防しようと、川の土砂を浚渫すると共にその土砂を堤防として積み上げた結果、次第に周辺地盤よりも河床が高くなって行ったのである。

 JR線や国道1号線付近の旧河川は、前述のように元の天井川の姿を留めているが、水の無くなった川底は当然ながら露呈して草に覆われており、川を横切る土橋状の遊歩道も整備されているせいか、川跡というよりはただの細長い窪地のようになっていた。また、主要な県道が通る場所では、かつての土手が切り崩されて道路が開通しており、その付近に限って見れば、何も知らないと川の土手であったとは思えない姿となっている。とは言え、土手の遊歩道を繋げるべく切り通しに橋が掛けられている場所もあり、水があった時と同じように、市民の憩いの場所としてジョギングコースや散歩コースとして愛用されているようだ。古いものから新しいものへと切替えた時に、無駄なので全く無くしてしまおうというのではなく、古いものに対する住民の愛着や記憶を大事にしつつ、有用なものへと次第に変えていこうとしているのが、旧草津川からは感じられて良かった。

 

最終訪問日:2012/5/12

 

 

教科書に出てきた、川の下をくぐる電車の写真が小学生の自分には衝撃で、いつか訪れてみたいと思っていました。

幹線や鉄路を跨ぐ部分がそのままだったのは、とても良かったですね。

念願成就!