Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

水攻築堤跡

蛙ヶ鼻築堤の全景

 羽柴秀吉が、織田家の中国方面軍司令官として毛利軍と対峙し、備中高松城を水攻めした際に築いた堤跡。

 天正10年(1582)、秀吉率いる織田軍は、中国地方攻略の緒戦として、境目七城と呼ばれる領境の城を次々と落とし、4月15日にはその要となる備中高松城へと迫った。しかし、落城した敗残兵を吸収した城兵の数は3千から5千にも上り、沼田に囲まれた城という所堅固な立地もあって、力攻めでは落とすことができず、戦いは持久包囲戦へと移行する。

 そこで秀吉は、信長に援軍を依頼すると同時に、黒田官兵衛孝高の発案ともいわれる水攻めの案を採用し、周辺の農民を高額な報酬で動員して僅か12日で堤を完成させたという。堤の内部へ導水される足守川の水は、折からの梅雨によって水量が増大し、城は瞬く間に湖上に浮かんだ。

 こうして、高松城は補給不可能な孤城となり、援軍に現れた毛利本軍も手が出せず、降伏を待つばかりとなった。この開城交渉を始めた矢先、京から6月2日に本能寺にて信長が横死したとの情報が入り、秀吉軍は早々に毛利軍との交渉をまとめると、中国大返しと呼ばれる急速行軍で軍を返し、歴史を切り拓いて行く。

備中高松城水攻めの布陣図

 備中高松城の跡地には、民家の土蔵を改造したと思われる資料館があるが、そこには昭和60年(1985)に起こった洪水の様子が写真として残っている。それを見ると、水攻めの築堤はその頃には当然ながらもう無いのだが、城跡を残して一帯がきれいに水没する一方で、城跡の西南方向を通っている旧街道筋の国道180号線より向こう側は沈んでいない。つまり、もともと城跡部分が多少隆起しているが、全体としてはすり鉢状の地形なのである。このことから、最近の研究では、築堤は最も低い東南の300mほどの部分が資料にある巨大なもので、それ以外はもともと城に比べて高地であり、それほど大きい堤は築かれなかったというのが主な見方になっているようだ。

 この水攻めの際の築堤跡は、備中高松城周辺に何ヶ所かあるが、連続したものではなく、何とか部分部分が残っているに過ぎない。訪れたのは、秀吉が水攻めの際に本陣を置いた蛙ヶ鼻から繋がる部分で、全体では堤の東端に当たる。発掘調査からは、当時の文献に記された高さ3丈、堤の上幅4丈、下幅10丈という大きさがほぼ間違いないものと確認されているが、長年の風化や農業で土砂が切り出されてしまった為なのか、残念ながら現在は高さ4~5m、上幅3~4m、下幅10m程度の大きさしか残っておらず、巨大な土木工事を想像するには、少し物足りなかった。

 この蛙ヶ鼻の築堤跡も、他と同じように10mほどの長さしかないのだが、周辺はきれいに公園として整備されており、大きさはともかく、当時の雰囲気は偲ぶことができる。また、付近には備中高松城や各武将の陣所跡などもあるので、堤跡をからこれらを散策して回るのも面白いだろう。

 

最終訪問日:2005/6/16

 

 

歴史上、これほど有名な攻城戦は無いというぐらい派手な城攻めの、根幹となる史跡です。

現地の史跡は縮小版になってしまってますが、それでもこんな巨大な堤を12日間で完成させるなんてエグいな、と思うには十分な大きさですね。