後に毛利氏の重臣となった安芸熊谷家の居城。単に高松城とも書かれるが、安北郡三入荘にあったことから、他の高松城と区別して三入高松城と呼ぶことも多い。
熊谷氏は、源平の争乱の際に平敦盛を涙ながらに討ったことで知られる、熊谷次郎直実の子孫という。
熊谷氏の祖を辿ると、関東各地に勢力を扶養した桓武平氏の平国香流を称しているが、異説として、武蔵七党のひとつに数えられることもある多治比氏の丹党や、姓不詳の私市党の流れという説もある。系図類では、北条氏と同じ平直方の子孫としており、頼朝の挙兵直後の石橋山の戦いでは平家側として参陣したものの、前述のように以降は頼朝に従って平家討伐に功を挙げた。
しかし直実は、我が子と同じ年頃の敦盛を討ったことで世の無常を感じ、また、叔父久下直光との所領を巡る争いもあったことから、建久4年(1194)頃までには早々に出家したという。
熊谷氏と三入荘の繋がりは、直実の孫直国が、承久3年(1221)の承久の乱で奮戦して討死した功により、その子直時に三入荘が与えられたことに始まる。一説には、翌年に直時が下向して伊勢ヶ坪城を築き、本拠にしたとも伝わるが、実際には、直時やその子孫は熊谷郷に在り、三入荘に代官を派遣していたようだ。


熊谷氏が三入荘に入部したのは、13世紀後半とも、14世紀初めの直経の時ともいわれ、通説では、貞和3年(1347)に直経が高松城を築いたとされる。ただ、それ以前に二階堂氏が城に在ったとも、時代が下った応永年間(1394-1428)の築城という説もあり、明確には判っていない。
直経以降の安芸熊谷家は、安芸国佐東郡の分郡守護だった安芸武田家に概ね従い、武田家臣温科国親が武田元信に叛いた際には、熊谷膳直が討伐に活躍したことが見える。この間、膳直や子元直は、分立した庶家を整理して勢力を高めて行ったようだ。
元直時代の主君である武田元繁は、山口へと下って来た前将軍足利義尹(義稙)の仲裁で大内氏と共同歩調を採ることとなり、永正4年(1507)11月に、義尹を奉じて上洛した大内義興に従って上洛しているのだが、その軍中には元直の姿もあった。
しかし、義興が領地を留守にしている間に、厳島神社の神主家の家督を巡って争いが起こり、その鎮撫を命じられた元繁は、同12年(1515)に領国へと帰ったものの、帰国早々に反大内の兵を挙げて大内方の諸城を攻略すると共に、反大内の姿勢を明確にしつつあった尼子経久と婚姻を結んだ。
この動きに対抗すべく、大内方として活動していた毛利氏や吉川氏は、武田方の有田城を攻略することで武田方の軍事行動を牽制した。これによって元繁の目は北へと向かい、永正14年(1517)10月に影響下の国人を動員して兵5千で有田城奪回の軍を発し、有田城を囲むと共に隣接する毛利領にも侵入している。


対する毛利氏は、幼主幸松丸の後見役だった叔父元就が、吉川氏と連携して有田城へと兵を進めたのだが、兵力は僅か千という寡兵であった。これを見た武田軍は、数を恃んで力押しに毛利・吉川連合軍を擂り潰しに掛かったが、連合軍は前線で兵を叱咤していた勇将の元直に肉薄し、元直を矢で討つことに成功する。そして、この報せを聞いた元繁が応戦のために前線の又打川を渡ろうとした際、毛利軍の斉射によってこれまた矢に射られ、主君を失った武田軍は潰走するに至った。これを有田中井出の戦いといい、その鮮やかな勝利から、西の桶狭間とも呼ぶ。
元直の跡を継いだ子信直は、しばらくは仇敵である毛利氏と対立していたようだが、大永2年(1522)頃には会談を持ち、大内氏側でもそれを歓迎していたことが史料から知られる。
ただ、直後に元就は尼子方に転じており、通説では、同4年(1524)に大内軍が武田氏の佐東銀山城を囲んだ際には、余勢を駆って三入荘まで侵入した大内軍を信直が撃退した上、経久の動員で銀山城救援に駆け付けた元就と共同して包囲軍を奇襲し、勝利したという。
その後、信直は元繁の嫡男で妹婿だった光和と不和になり、天文2年(1533)8月には武田軍によって高松城を攻撃されている。しかし、横川表の戦いに寡兵ながら勝利し、高松城でも攻城軍を退けたため、城を守ることに成功した。


以降、信直は元就、そして大内氏と結び、安芸国人の盟主の地位を確立しつつあった元就の指示で行軍するようになり、銀山城攻略や月山富田城攻めに参陣している。そして、天文16年(1547)には、元就の次男吉川元春と元直の娘新庄局の婚儀が成り、毛利氏の一門衆としての立場も得た。
天文20年(1551)に大寧寺の変が勃発し、大内義隆が重臣陶隆房(晴賢)に討たれると、信直は、元就や元春と終始行動を共にし、元就が晴賢から離反すると、陶方との戦闘となった折敷畑の合戦で功を挙げ、さらに厳島の宮尾城に援軍として入城するなど活躍し、毛利氏の重臣としての地位を確立して行く。
この毛利氏と共に安芸熊谷家が隆盛となる中、高松城は熊谷氏の本拠として在り続け、最終的には1万6千石の首城となった。信直は、朝鮮の役の最中の文禄2年(1593)に病没しているが、高松城の麓の根の谷川西岸にあった観音寺に葬られており、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で毛利氏の防長減転封に従って移るまで、屋敷を広島城下に置きつつも、安芸熊谷家の居城であったことが解る。
城は、南流して太田川に注ぐ根の谷川の東岸に張り出した、お椀型のほぼ独立丘陵の山に築かれ、特に根の谷川側の斜面は非常に急峻で地形的な防御力が高い。
大きく見ると、西北から流れ出して来る太田川と、北からの根の谷川、そして東から流れて来る三篠川の合流点にも至近で、三川を使った水運や、その合流部の南の田口の辺りで太田川を渡っていた山陽道、そしてその先のデルタ地帯の海運にも通じる場所であり、武田氏の居城銀山城の物流の頸部を押さえる立地であった。武田氏が熊谷氏を重視していた理由が、よく解るだろう。


また、根の谷川と江の川系の簸川の川沿いを伝って繋がる吉田から見ると、瀬戸内海に通じる太田川下流部へと出る際の、平野部の関門となる城であり、熊谷氏が毛利家中で重用されたのにも納得が行く。
城の構造は、頂上部を細長く楕円形に削平して本丸とし、北東から南西に掛けて細長く延びる峰筋の南西側に小さな二ノ丸、甲丸、三ノ丸を、北東側に鐘ノ段を置いて城郭化している。また、本丸の南東側には、すぐ下に馬場を、南に延びる峰筋には与助丸を置いていた。大手道は北側にあったようで、その方向の小ピークには、谷ノ坊を中心とする出丸のような削平地が設けられている。ただ、元和元年(1615)の一国一城令の際に徹底的に破壊されたといわれており、石垣などは僅かしか残っていない。
高松城へは、登山道は4本あるようで、一番分かりやすいのは登山口は南西側だろうか。根の谷川の河原に大きな案内板が見え、遠くからでもすぐ発見できるだろう。自分が使ったのは、車道でかなり標高を稼げる上に山頂までの行程が短い東側の登山口で、途中までは比較的緩やかであったが、中腹部はかなり険しく、山容の険しさを実感した。
頂上部の本丸は綺麗に整備されており、下草も刈られ、太田川までが一望でき、非常に爽快な眺望が開けている。本丸とそれに続く空間はかなりの広さがあり、さすがは1万6千石を領した安芸熊谷家の城といったところだろう。
また、麓の根の谷川から仰ぎ見た山は、険しい山容もあって非常に圧迫感があり、川筋の街道を頻繁に使っていたであろう武田氏や毛利氏の支城網の構想に、大きな影響を与えたのだろうと容易に推測できる城だった。
最終訪問日:2023/5/22
有田中井手の戦いで有名な安芸熊谷家の居城で、昔から行ってみたいと思ってました。
威圧するような険しい山に在り、遠目からでも堅城という雰囲気が漂っていますね。
ただ、三ノ丸を除いた主郭部は、非常に手入れされているので、登ってしまえば散策は非常に楽なお城でした。