Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

高山城 (古高山城・妻高山城)

 毛利元就の三男隆景が養子として入る前の沼田小早川家の居城で、本拠であった当時は高山城と呼ばれたが、隆景が新たに副城のあった川向かいの山に城を築いたため、新旧という意味での古高山城や、山の名から区別して妻高山城と呼ばれた。この妻という字の意味は、同型の2つの男山と女山の内の女山という意味で、新高山城の築かれた山が男山にあたる。

 小早川氏は、関東に勢力を扶養した桓武平氏の裔である土肥氏の流れで、土肥実平の子弥太郎遠平を祖とし、父の実平は、初期の鎌倉政権における重鎮のひとりであった。

 実平は、西相模に勢力を持っていた中村党の中村宗平の子で、源平の争乱の際、最初期から頼朝に従って功を挙げ、備前・備中・備後3ヶ国において、後の守護職である惣追捕使を務めており、実平時代から中国地方には関わりがあったようだ。

 この実平が称していた土肥は、相模国早河荘土肥郷を領して土肥を称していたのだが、子の遠平は、同じく早河荘内の地名から名字を取って小早川と名乗り、これが小早川氏の最初となる。

 遠平は、父と共に最初期から頼朝に味方して活動しており、その功によって安芸国沼田荘の地頭職を得たのだが、源氏の門葉であった平賀義信の五男景平を養子としていたことから、嫡子維平に本貫である土肥郷を譲り、沼田荘は景平に継がせた。この一連の流れが、小早川氏が沼田と関わるようになった最初となる。

 しかし維平は、後の建保元年(1213)の和田合戦で和田方となって処断されたため、最終的には景平が土肥郷をも継承し、土肥小早川一党の惣領にもなった。この経緯により、本貫地の相模では小早川氏が栄えず、安芸で小早川氏が続くこととなる。

高山城本丸

高山城二ノ丸

 その後、景平が沼田荘を嫡男の茂平と次男季平に分割相続させたことにより、茂平が建永元年(1206)にこの高山城を築城し、本拠を移したという。また茂平は、承久3年(1221)の承久の乱の功で竹原荘の地頭職も得、沼田荘を次男あるいは三男ながら嫡出の雅平に、竹原荘を三男あるいは四男の政景に継がせた。以降、平を通字とする嫡流を沼田小早川家といい、景を通字とする庶流を竹原小早川家と呼んだ。

 このように、安芸南東部での地歩を固めていた小早川氏であったが、鎌倉幕府崩壊の過程においては、嫡流沼田小早川家の宣平・貞平父子は北条方に味方した。後に赦されたものの、領地を一時没収されるなどの憂き目に遭い、勢力は停滞してしまう。また、建武5年(1338)には、沼田小早川家の一門で南朝に味方していた小早川頼平が隙を衝いて高山城を占拠し、岩松頼有と忽那重清が高山城を攻めたことが見える。

 このように時流に乗れなかった惣領家に対し、竹原小早川家は幕府崩壊から建武期、南北朝初期と一貫して尊氏に味方して勢力を拡げたため、両家の勢力が拮抗し、やがて惣領を巡る争いの元となって行く。

 6代将軍足利義教の時代には、則平が嫡子持平に一旦は家督を譲ったものの、後に次子煕平に改めて家督を継がせたことにより、則平の死後に家督争いが生じてしまい、諸国の豪族の弱体化政策を進める義教の介入を受けることとなる。

高山城中ノ段

高山城北ノ丸

 義教は、沼田小早川家の家督を竹原小早川家の盛景に継がせるよう裁定したのだが、嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱によって義教が謀殺され、これは実現しなかった。しかし、沼田小早川家と竹原小早川家の関係は険悪化してしまい、竹原小早川家が大内氏に接近したため、沼田小早川家は大内氏と対立する細川氏に接近し、寛正2年(1461)と同6年(1465)に両家は軍事衝突している。

 そして、応仁元年(1467)から始まる応仁の乱では、その対立構造を引きずったまま両家が東西の別陣営に分かれ、大内氏と共に西軍に属した竹原小早川家の弘景が、応仁2年(1468)から幾度となく敬平の守るこの城へと押し寄せたという。しかし、結局は落城することなく、乱終結後に和睦した。

 応仁の乱の後、敬平は幕府奉公衆として将軍に近侍しつつ引き続き細川氏との関係を深め、それを後ろ楯に勢力を拡大したが、敬平の死後は、扶平、興平、正平と20代で早世する当主が続き、必然的にその子が幼主として継ぐという事態が相次いだため、次第に勢力を衰えさせていったようだ。

 正平が、天文8年(1539)か翌年に大内方から尼子方へ転じようとした時、大内軍に高山城を占拠され、監視下に置かれたことなどは、大勢力から大きく干渉されるようにようになったことを如実に表しており、天文11年(1542)から翌年にかけての月山富田城攻めにおいて正平が討死したのも、懲罰的な意味合いからか、危険な殿軍を命じられたからであった。

高山城扇ノ丸

高山城南ノ丸

 正平の討死後、跡を継いだのは繁平であったが、繁平は幼主である上に病気で視力を失ってしまっており、尼子方となった山名理興が同12年(1543)に椋梨まで侵攻した際は、小早川庶流である乃美隆興や毛利元就の協力で撃退に成功し、同13年(1544)に尼子晴久が攻め寄せた際にも、籠城の末に家臣団の活躍でなんとか撃退できたものの、家の存続が危うい状況であったという。

 一方、弘景の子弘平の代に沼田小早川家の幼主興平の後見役をも務め、実質的に惣領となっていた竹原小早川家だったが、こちらも天文10年(1541)に、弘平の子興景が銀山城攻めの陣中で嗣子無く病没してしまったため、毛利氏出身の興景夫人の血縁から、翌々年に毛利元就の三男隆景が養子に入って継ぐといった状況であった。

 このため、大内氏や毛利氏の圧力もあり、両家相談の結果、繁平の妹婿として隆景を迎えることにより、天文19年(1550)に小早川両家の統一が成っている。

 両家統一後、隆景は、最初はこの高山城に入城したが、小早川水軍の運用を優先してすぐ西に新高山城を築城し、天文21年(1552)に移った。中世山城の形態で詰城的性格の強かったこの城から、居館や家臣屋敷を包含する近世的山城への移行と共に、小早川家臣団の人心を刷新する目的もあったと思われる。

 新旧の両城とも高山城と呼ばれたが、区別するために、こちらは前述のように古高山城や妻高山城と呼ばれ、また、城を移した時に廃城になったのではなく、向城としての役割から、新高山城の副城としての機能は防御のために残されていた。廃城時期は不明だが、副城の機能から正式に廃城になった時期を考えると、隆景が四国に領地を得た天正13年(1585)か、新高山城から三原城に城の資材が移された慶長元年(1596)だろうか。

高山城の北峰に残る石垣

高山城から川湊のあった本郷市街を望む

 城は、沼田川の川湊があった本郷の北に位置し、西に沼田川、東に仏通寺川を控える独立的で峻険な山に築かれている。ただ、中腹は峻険ではあるが、山上は切り取られたように平坦な地形で、東西方向に南北に並んで2筋の峰筋があり、その2筋の峰と間の鞍部を城郭化した城だ。

 本丸は北の峰筋にあり、本丸の北西に中ノ段、二ノ丸、北ノ丸と高低の比較的少ない郭を重ね、東側に扇ノ丸と出丸があった。鞍部の馬場を介した先の南の峰筋には、中央部のイワオ丸を中心に、イワオ丸の西に権現丸、太鼓丸、西ノ丸、反対の東側に南ノ丸が置かれており、さらには南ノ丸の東と権現丸の北に出丸という段郭が大きくなったような区画がある。

 全体的に見ると、本丸を中心とする北の尾根筋の郭群は、削平地も広くかなり近世的で、南のイワオ丸を中心とする郭群はやや中世的な雰囲気だった。ただ、戦国時代中後期まで本拠だったという程度の縄張の雰囲気はせず、新高山城が築かれて以降も、継続的に副城として改修拡張が施されていたと思われる。また、当初の高山城はイワオ丸近辺のみで、後に北の峰筋が拡張されていったようにも推測できるが、どうだろうか。

 高山城へ入る道は、南の大手と北の搦手の2筋あるが、登城時は南の大手側の健脚コースから登った。ただ、こちら側は住宅地の中に登山口があって分かりにくい上、駐車場も無いため、車の場合は北の搦手側から登るのが良さそうだ。駅から徒歩で訪れ、大手側から登る際は、本郷第3街区公園を目印として住宅地を進み、その公園の真っすぐ北側が登山口である。

 

最終訪問日:2023/5/21

 

 

最初の挑戦の時は、住宅地であちこちウロウロしたものの、入山路を見つけられず、撤退しましたが、22年振りのリベンジでは予習バッチリで登城に成功しました。

インターネット様様ですね。

ちみなに、本郷町観光協会のページが、写真付きで行き方を案内しているので、解りやすいです。