三原城は、永禄10年(1567)頃に、瀬戸内の水軍を傘下に収めていた小早川隆景が、三原湾に浮かぶ大島、小島を結び、城郭兼軍港として築城を始めた。当時は三原要害とも呼ばれたようで、城郭の持つ機能が解りやすい。
築城後は、時代が下った天正10年(1582)前後に大きな改修が施されており、その時期に城は一応の完成を見たとされているが、後の慶長元年(1596)にも、筑前国名島城を養子秀秋に譲って隠退した隆景の隠居城として改修されており、現在残っている近世城としての完成形は、この時の改修によると考えられている。満潮時には、まるで海に浮かんで見えることから、浮城の名があり、秀吉もその縄張を賞賛したという。
この改修の際、かつての居城であった新高山城を廃城にして資材が転用されたといい、海運を重視した経済的発展を図ったと思われる。このような、やや奥まった川湊を持つ城から海際へ本拠を移すというのは、各地で行われた流れでもあった。また、沼田川の堆積作用により、本郷の川湊としての機能低下もあったようである。


しかし隆景は、改修の翌年に亡くなってしまい、家督を継いだ秀秋は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦にて、西軍から東軍へ戦局を大きく動かす寝返りを行った功で岡山へ加増転封となったため、三原城は、小早川氏の長年の拠点としての歴史を終えた。
関ヶ原の合戦後、秀秋に代わって三原城を支配したのは、安芸備後を与えられて広島城に入部した福島正則で、正則は広島城を首城として領内に6つの城を整備し、この三原城には養子正之を入れ、西備後地域の要としたのだが、一説に、正則が三原城南面の櫓群を整備したともいう。
その後、城主であった正之は、慶長13年(1608)に死去してしまっているのだが、この正之の死に関しては、正之の乱行を正則が幕府に訴え出て幽閉し、やがて餓死したと伝わっている。一方で、資質の優れた武将だったという話も伝わっており、どうやら正則に忠勝(正勝)や正利という実子が誕生したため、正之を疎んじた結果という線が怪しいようだ。
主君を模倣したわけではないだろうが、奇しくも、正則を取り立てた秀吉と、その養嗣子となって後に殺生関白と呼ばれた秀次との関係性に酷似している。


正之が幽閉された後の三原城主は不明で、恐らく城番が置かれていたと思われるが、元和5年(1619)には、今度は正則が、自身の不注意なのか幕府官僚の謀略によるものなのか、崩れた広島城の石垣を無許可で補修した咎によって改易となり、信濃国川中島に流されてしまった。
こうして芸備二州は、福島領を引き継いだ浅野氏の領地となり、三原城も、浅野長政の従兄弟で一門家老の浅野忠吉が城代となり、忠吉の系統が維新まで世襲している。ちなみに、正則が支城網として整備した6つの城は廃城になったものが多いが、この三原城だけは、備後国の統治拠点として、元和元年(1615)の一国一城令後も存続が認められていたのだった。
城は、そのまま広島城の東の支城として続き、維新後は、水軍の城として築かれた立地を生かし、一時は海軍鎮守府用地となったが、明治19年(1886)に正式に軍港として呉が選ばれたことにより、後に城地や建物が競売にかけられ、取り壊されるなどしている。


そして、明治27年(1894)には鉄道が本丸を貫き、今のいびつな形となったのだが、富国強兵と西洋化が国是であった当時では、もし鉄道用地とならなくても、結局は破壊を免れなかっただろう。
それにしても、水堀を埋め立てたり堀切を利用したりして線路や道路を通す例は多いのだが、わざわざ石垣を削ってまでして、城のど真ん中を突っ切って通しているのは珍しい。しかも、城の中心に駅を造るとなると、長岡城のように城跡が跡形もなく消えてしまってもおかしくないのだが、石垣が駅と共存しているというのなら、なおさらのことである。
城の構造は、南側の海に船入を開いて直接船で入れるようになっており、水軍の城らしさが窺え、本丸を中心として北を除く3方向に二ノ丸を置き、内堀を挟んでその東側に三ノ丸を配していた。また、三ノ丸の東には中堀があり、その外側には惣掘の役目を果たしたと思われる外堀を穿ち、さらに城の東西にはそれぞれ和久原川と河原谷川を天然の堀として配している。全体で見ると、東西900m、南北700m、城門14ヶ所、櫓30以上という巨大な規模を持つ城であった。


三原城本丸北端にある天守台は、日本最大級の規模で、広島城の天守台の6倍の面積を持ち、「アブリ積み」と呼ばれる特殊な工法で造られていたという。このような、近世城郭の特徴である高石垣は、戦乱収まらぬ天正期の改修ではなく平時であった慶長期の改修で完成したものと思われるが、この時には、すでに広島城が存在しており、慎重で慎み深かった隆景が、本家を上回る規模の天守を望んでいたとは考えにくく、正しくは天守郭と呼ぶべきものと思われる。
実際、絵図には、二重櫓が多聞で連結している姿が描かれており、天守自体の存在には諸説あるものの、和歌山城のような構成であったと考えるのが自然だろう。従って、単純に天守台として大きさを比較するのは、やや障りがあるのではないだろうか。
現在の三原城は、駅の通路が本丸石垣を貫通してはいるが、その一部は形状を留めており、天守台と周囲の堀、船入跡、船入櫓跡、本丸中門跡が駅周辺に残っている。駅からでも見ることができる天守台石垣は、築かれてから400年たった現在でも緩やかな優美さを持った反りが健在で、当時の威容を偲ばせてくれており、その存在感が素晴らしかった。
最終訪問日:2016/11/14
三原城は2度訪問していますが、随分と駅や市街地にも見つけやすい案内が増えましたね。
城域全体が市街地化しているんですが、遺構が点々と残っていて、三原の街の雰囲気を散策で感じつつ遺構巡りをするのも、宝探しのようで楽しかったです。