Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

富田城 (月山富田城)

 言わずと知れた山陰の雄尼子氏が居城とした山城。五大山城のひとつとして有名であるが、麓に近い中腹に広大な郭群を持っており、平山城の性格をも併せ持つ。

 富田城の築城自体は古く、平治年間(1159-60)頃に平景清が築城したとも、文治元年(1185)に出雲守護となった佐々木義清が入部して築いたともいう。

 以後は、代々の出雲守護の居城となっていたが、義清の孫頼泰が守護職を継いで塩冶郷へ移り、塩冶氏を称すると、弟義泰が富田荘を相続して富田氏を名乗り、富田城の城主となった。

 鎌倉時代から南北朝時代に掛けて、出雲源氏の惣領であった塩冶高貞は、最初は後醍醐天皇建武政権崩壊後は尊氏に味方し、出雲に加えて隠岐の守護にもなったが、暦応4年(1341)に突如として叛乱を起こしたため、討伐に功のあった山名時氏が出雲守護となり、富田城主であった富田秀貞が守護代となっている。

 その後の出雲守護職は、山名氏と京極氏が取り合っていたが、その綱引きの余波で、秀貞が南朝方の出雲守護に任じられたこともあったようだ。その後、明徳2年(1391)の明徳の乱で、出雲守護山名満幸が討伐された際には、高清の弟の系統である塩冶師高が満幸の目代として城に在り、自刃したことが見える。

富田城本丸の山中鹿介記念碑

富田城三ノ丸の石垣

 乱の終結後、翌年には満幸に代わって京極高詮が出雲と隠岐の守護となり、応永2年(1395)に、その守護代として高詮の甥である尼子持久が派遣され、以降は尼子氏の居城となった。

 だが、出雲は国人勢力が強く、持久の子清貞(清定)の時には、応仁元年(1467)からの応仁の乱の余波で、翌年6月に親山名派の松田氏や三沢氏らの一揆勢力の攻撃に城が晒されたほか、文明8年(1476)の能義郡土一揆の際にも攻撃を受けている。

 清貞の子経久は、文明16年(1484)に京極氏からの独立を図って失敗したため、幕府や守護の命を受けた国人衆の兵に城を追われたが、その2年後に地元鉢屋党の協力で城に侵入し、計略を以って奪回したという。そして経久は、この富田城を拠点にして、山陰を中心に着々と勢力を広げ、経久の孫である晴久の代には、遠く美作や備中、播磨にまで影響力が及ぶ尼子氏の最盛期を築き、城もそれに相応しいように改修拡張された。

 しかし、天文9年(1540)から翌年に掛けての、毛利元就吉田郡山城攻略の失敗で国人の離反を招き、天文11年(1542)から翌年にかけて、中国の覇権を争っていた山口の大内氏にこの城を囲まれている。

富田城の政治的中心であった山中御殿全景と山上へと続く七曲り

富田城の攻防でも戦場となった塩谷口の石垣は細い通路となっている

 この戦いは、第一次月山富田城の戦いと呼ばれるが、大内軍の厭戦気分に助けられつつ、城の堅牢さと尼子十旗十砦と呼ばれる支城網を機能させて撃退し、勢力を盛り返した。

 しかし、その後は大内氏に対して謀叛を起こした陶晴賢を、天文24年(1555)の厳島の合戦で破った元就の台頭や、新宮党の族滅などの内部分裂もあり、再び勢力を弱めてしまう。この事件は、俗説では、晴政が元就の謀略に掛かったことになっているが、晴久が中央集権化を図る上で、様々な権益を持っていた新宮党と衝突した結果であるともいわれる。

 いずれにせよ、尼子氏の集権化は思ったように進まず、晴政の子義久の時には、永禄4年(1561)の雲芸和議が転換点となって国人衆の離反が続き、弱体化に拍車が掛かった。そして、これを見た元就は、満を持して出雲攻略に取り掛かり、同8年(1565)4月に富田城へ籠城するところまで追い詰められてしまう。

 籠城戦では、富田城自体はさすがに堅固であったが、力攻めを諦めた元就は、方針を兵糧攻めに変更し、包囲中に大病を患いながらも永禄9年11月(1567.1)にようやく開城させ、尼子一族を捕えた。この時、最後まで残った籠城兵は3百に満たなかったといわれ、非常に厳しい籠城戦だったという事の証左になるだろうか。

富田城花ノ壇と復元された建物

富田城千畳平

 毛利氏の支配下となった富田城には、天野隆重が城代として入り、永禄12年(1569)には、再興を目指す尼子勝久山中鹿介幸盛主従に攻撃されたが、無事撃退に成功している。

 その後、元就の子である元秋、元康の城主時代を経て吉川広家が12万石を領したが、毛利氏は慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で西軍に属して防長二州に押し込められ、代わって堀尾吉晴が24万石で入部した。

 吉晴は、峻険な山城である富田城から、政庁機能や城下町が形成しやすい近世平山城への主城移転を考え、同16年(1611)に宍道湖畔に松江城を築いて移り、ここに4世紀半に渡った富田城の歴史は、終焉を迎えたのである。

 城は、月山の西北麓を廻る飯梨川を堀に使い、山上の軍事機能を重視した部分と、中腹の居館政庁機能を重視した部分の、大きく2つに分かれた構造をしており、中世から近世へと変遷する構造の変化が、そのまま表れている城と言えるだろう。

 山上の部分は、標高189mの月山山頂を中心に本丸、二ノ丸、三ノ丸と、北西に向かって尾根筋に築かれ、全て石垣造りで規模も大きく、中世の尼子氏時代の姿を色濃く感じさせる。

富田城縄張図

かなりの長さを持つ富田城馬乗馬場

 居館や政庁にあたる部分は、山頂から急峻な七曲を下った月山中腹にあり、山中御殿を中心に花ノ壇、奥書院、太鼓壇、千畳平、大東平、お茶庫台など、かなり広大な敷地を擁していた。この部分は政庁的な機能だけではなく、3つある登城口がすべてこの中腹の部分に繋がるため、平時の機能を重視しているとは言え、軍事的にも非常に大事な部分であり、毛利氏に攻撃された尼子氏も、ここで死力を尽くして城門で防戦している。

 現在は、これらの遺構が修復復元され、当時を偲ばせる礎石や巨大な石垣などがはっきりしており、特にほとんど当時の物という中腹部分の石垣は壮観だ。石垣の積み方を見ると、山頂のものはより古く石も小さめだが、中腹の政庁部分の石垣は大きく、その時代の差が面白い。

 山の谷側のほぼ全体が城郭化されている巨大な城だが、江戸時代初期に廃城となった事もあって、江戸時代から現在まであまり手が入る事もなく、中世山城から近世山城へと変遷する頃の城郭として、良いサンプルと言えるだろう。全体を散策してみると、驚嘆するほどの規模があり、さすがは五大山城のひとつに数えられている城だと感服する。

 

最終訪問日:2022/5/23

 

 

1度目の訪問では山上まで散策しましたが、2度目は暑さもあったので、山中御殿までの散策にとどめました。

20年以上振りで、さらに整備も進んでいましたね。

これを登るのは厳しいなと山頂へ続く七曲りを眺めていると、七曲りをトレイルランで下りてくる人がいましたが、なんて恐ろしい足腰と心肺機能を持っているのか・・・

白鹿城でもトレイルランの人に出会ったので、島根では流行ってるんでしょうか。