尼子氏の支城網である十旗十砦のひとつで、室町時代に松田氏によって築城されたと伝わる。
この松田氏は、相模国波多野荘を本貫とした藤原秀郷流波多野氏から分かれた一族で、名字の地は秦野盆地の松田郷という。
治承4年(1180)の頼朝挙兵の際、波多野義常は頼朝に味方せず、後に追手を差し向けられて自害したが、その子有常は捕らえられた後に頼朝に召され、父の遺領の内、松田郷を与えられて地名を名乗り、松田氏の祖となった。そして有常は、承久3年(1221)の承久の乱で功を挙げ、翌年に出雲国の大野荘と安来荘を恩賞として与えられ、有常の子有忠が分家して下向したという。
その後の松田氏は、室町時代には出雲の有力国人に成長しており、史料上にもその名が見える。当時は、領内の安来津が中海の重要港として発展しており、隠岐との連絡や美保関を通じた海外交易で利を上げていたと見られ、安来津に朝鮮人集落も存在したほどだった。これらの経済的恩恵を受け、有力国人として力を蓄えたのだろう。


室町時代の出雲は、山名氏と京極氏が守護職を巡って争った地であったが、松田氏は、京極氏の一族で出雲守護代だった尼子清定に対抗する勢力として登場する。
応仁の乱勃発の翌年である応仁2年(1468)6月に、出雲奪回を図る山名氏に味方して、三沢氏らと共に尼子清定の居城月山富田城に攻め寄せたことが見えるが、清定に撃退された上、逆襲に遭ってしまう。この逆襲により、山名六郎と松田備前守が籠っていた十神山城は落城し、尼子氏の支城となった。
尼子氏時代の十神山城は、月山富田城を中心とする支城網十旗十砦のひとつとして位置付けられ、松尾遠江守が城代を務めていたことが見える。城から至近の安来津は、広瀬川を通じて月山富田城の外港として機能しており、城には、美保関を経由した国内外の交易ルートを押さえる役割があった。
永禄年間(1558-69)に入ると、旧大内領を吸収した毛利氏との熾烈な争いや当主晴久の急死により、尼子氏の勢力は急速に衰えて行くが、永禄8年(1565)からの毛利軍による月山富田城攻めの際には、月山富田城への補給ルートのひとつとして、十神山城が機能していたことが見える。


そのため、その補給ルートを潰すべく、毛利家臣児玉就忠が水軍を率いて同9年(1566)に城を攻略し、補給路を失った月山富田城は、ほどなくして開城降伏へと追い込まれた。
その後、山中鹿介幸盛が中心となった尼子氏再興運動の中で、毛利氏が九州に遠征した隙を衝いて永禄12年(1569)に再興軍によって掌握されたが、再興軍が翌年3月の布部山の合戦で敗れ、勢いを失って逼塞すると、毛利軍が開城させて奪回したようだ。
しかし、毛利元就が同年9月に重病に陥ると、毛利輝元や小早川隆景の兵が撤退したことによって再興軍は息を吹き返し、再び再興軍が十神山城を攻略している。だが、毛利氏は、就忠の甥で同じく水軍の将だった児玉就英を派遣し、10月下旬に陣容を整えた毛利軍によって再び城が陥落した。そして、再興運動もほどなく瓦解している。
以後、城は歴史に登場せず、いつ頃に廃城となったかは詳らかではない。ただ、毛利時代も月山富田城が東出雲の統治の中心であり、安来津から美保関の連絡線も生きていたはずで、豊臣政権期頃までは維持されたのではないだろうか。


十神山城は、安来津の北側に西へと突き出す標高93mの錐型の山に築かれているが、出雲国風土記では砥神島とあり、陸続きの陸繋島となったのは江戸時代中頃のようだ。つまり、築城された室町時代から戦国時代には、純然たる海城だったということになる。
錘型の山は、西側が最高部で主郭となるが、北東方向に中十神、小十神という2つの小ピークを持っており、それぞれ出丸のような郭が築かれていた。とは言え、大きな工事は行われていなかったようで、頂上部は二重の方形に削平されているのみであり、主郭部から延びる峰筋に小さな段郭が続く縄張は、中世的な趣が強い。また、南東方向の谷筋を作る2筋の峰の段郭は重層的で、現在の向陽寺方向に居館の存在が推定されているようだ。
恐らくは、防衛よりも、海上の監視と水軍の出陣拠点という性格が強い城だったと思われる。
現在の城跡は、公園化されて遊歩道が整備されており、十神山から中十神、小十神を歩き回ることが可能だが、十神山山頂の遺構以外は不明瞭で、縄張が追いにくい城だった。また、中海への眺望が開ける場所も少なく、爽快感には欠けるのだが、山中の遊歩道は程々に疲れる程度の負荷で、史跡を散歩すると考えると、ちょうど良い城だった。
最終訪問日:2022/5/23
国道9号線を走っていると、円錐型の綺麗な形の山が中海の際に見えて来ます。
それが十神山城のあった十神山。
いつも通る度に寄りたいなと思っていましたが、長い間の念願が叶いました。