Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

鳶ヶ巣城

 出雲の国人であった宍道氏が本拠とした山城。

 宍道氏は、宇多源氏佐々木氏の庶流京極氏から分かれた一族である。バサラ大名佐々木道誉として有名な京極高氏の孫にあたる秀益が、意宇郡宍道に下向して一帯を領し、金山要害城を築いて居城としたのが出雲での最初という。

 ちなみに、秀益の兄は、尼子氏の祖となった高久で、後に高久の子持久が、宍道氏と同じような形で出雲守護代として下向したことにより、戦国大名尼子氏の歴史が始まる。

 秀益が下向した時代は、年代的に考えて、山名氏と京極氏の間で出雲を巡る守護職の争奪が行われていた時代であり、京極氏の出雲での勢力安定を図るため、下向が命じられたかと思われる。

見張台程度の広さしかない鳶ヶ巣城主郭と宍道政慶の碑

広い上に眺望も開けている鳶ヶ巣城の南2郭

 秀益は、京極氏の当主であった高秀の子であり、京極氏からの期待や支援は大きかったのではないだろうか。実際、足利将軍家の外様衆にも属しており、幕臣という立場も持っていた。

 鳶ヶ巣城が宍道氏の居城となるのは戦国時代で、宍道系図は不明確ながら、秀益の子孫とされる久慶が、永正7年(1510)頃にこの鳶ヶ巣城を築いて本拠を移したという。

 その後、天文11年(1542)から翌年に掛けて、大内義隆が尼子氏の月山富田城を攻撃した第一次月山富田城の戦いの際、当主であった隆慶も、尼子氏から大内氏に寝返って参陣しているが、この戦いは得るところなく大内氏が敗れ、隆慶も報復を恐れて義隆と共に山口へと退去した。ただ、尼子氏が城を掌握したとは思われるものの、隆慶退去後の城がどうなったかは、よく分からない。

土塁が明確に残る鳶ヶ巣城の東2郭

鳶ヶ巣城の北1郭と北2郭の間の虎口

 その後、天文20年(1551)に義隆が家臣の陶晴賢に討たれ、さらに晴賢を毛利元就が同24年(1555)に討つと、隆慶は元就に服属し、永禄4年(1561)の元就による第二次月山富田城の戦いにも、嫡子政慶と共に参陣した。鳶ヶ巣城は、この攻城戦の兵站拠点として翌年に奪回、改修され、同9年11月(1567.1)の尼子氏滅亡後は、宍道氏が入城して旧領を回復している。

 しかし、毛利家中で在地国人の父祖伝来の地からの引き剥がしが進められたため、政慶も天正12年(1584)に長門へと移されており、以降の城がどうなったのかは、よく分からない。少なくとも、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦以降には、城が廃城となっていたのは間違いようだ。

 城は、北山山地の中ほど、標高285mの鳶ヶ巣山に築かれ、現在は眼下に斐伊川を廻らせる形となっているが、当時は宍道湖が麓にまで迫っており、宍道湖斐伊川の水運と、出雲大社への街道を押さえる重要な城である。

鳶ヶ巣城への登山道入口の解説板

鳶ヶ巣城縄張図

 縄張としては、頂上部の狭い主郭を中心に、4方向の峰筋に対してそれぞれ2段から3段の郭を造成した城で、土塁も明確に残っており、中世的な色彩が濃い城である。郭群としては、北の2段の郭と南の2段の郭が広く、頂上部を守る際の要となっていたのだろう。また、南西に延びる稜線はやや緩やかで、この方向にはやや離れて2段構成の西3郭があり、その先にもかなり下って麓ノ郭という削平地があることから、こちらが大手だったと思われる。

 城跡には、このように山上に10ヶ所の郭と5ヶ所の土塁、中腹に1ヶ所の郭が明確な状態で残っており、登山道も整備され、平地から登るために登山自体はかなり労力が要るものの、非常に登りやすい。頂上部は、下草が払われて散策しやすいほか、南2郭からは出雲平野が一望でき、厳しい登山の疲れを癒してくれる。

鳶ヶ巣城の主郭部から少し離れた西3郭は2段構成

鳶ヶ巣城西3郭と西2郭の間の一騎駆け

 

最終訪問日:2022/5/22

 

 

最初の訪問は、現地で平地からの登山になるということを知り、時間の都合で登るのを断念しました。

2度目の訪問で登ることができましたが、なかなかきつい登山でしたね。

でも、夕方だったのに2組の登山客とすれ違ったので、ハイクコースとして地元ではちょっと知られているお城なのかもしれません。