築城時期不明の崖城。
築城説としては2つあり、元寇に備えて山陰の沿岸に整備された諸城のひとつという説と、元弘年間(1331-34)に後醍醐天皇を迎えた名和長年の家臣荒松兵庫が築城したという説がある。
元寇に備えて築かれたとすると、日本の防備体制の整備のされ方から、1度目の襲来である文永11年(1274)の文永の役から弘安4年(1281)の間か、それ以降も続けられた警戒態勢の中でのことだろう。
元弘年間の築城説ならば、当然ながら後醍醐天皇を迎えた長年による命で荒松氏が築き、幕府軍に備えたということになる。


以降の城主は不明で、戦国時代には、淀江のやや南にある福頼周辺を本貫とする福頼氏の一門と見られる福頼左衛門尉が居城しており、出雲の大名尼子経久によって引き起こされた、大永の五月崩れと呼ばれる大永4年(1524)の伯耆への侵攻によって落城し、そのまま廃城になったという。
ただ、近年では大永の五月崩れのような電撃戦は無かったとされ、経久が伯耆守護山名家の内訌に介入する形で、永正年間(1504-21)後半から大永年間(1521-28)に掛けて進出したとされており、西伯耆の富長城は、実際には大永4年よりも早く尼子氏が掌握した可能性がある。


ちなみに福頼氏は、伯耆山名家臣として見える国人で、伯耆山名家臣としては、かなり有力な勢力を持った一族であったようだ。後には、尼子家臣にも福頼姓の武将が見えており、福頼一族は、尼子氏の伯耆進出によって尼子氏に臣従した一族と、山名氏に従って山名氏の領国へ落ち延びた一族がいたのだろう。
戦国時代末期には、反尼子の立場であった福頼元秀が毛利氏に属し、米子城の事績などに見えるほか、福頼左右衛門尉なる武将も確認でき、一説に左右衛門尉が富長城主であったともいう。この説に従えば、富長城は戦国末期まで存在したということになる。


城は、大山からの緩やかな斜面が海へと落ち込む標高26mの断崖上の平坦な地形に築かれた城で、東を細流の流れで遮断した四角形に近い五角形の本丸を中心に、空堀を介して西に二ノ丸と帯郭を配したシンプルな構成となっており、方形居館をやや強化した程度の城と言えるだろうか。
富長神社の境内となっている本丸には、土塁が明確に残っているほか、社殿裏手の広大な削平地や、西側の堀切もはっきりとしてり、小さいながら、その明確な遺構が見応えとなっている城である。
最終訪問日:2022/5/23
富長神社の境内に入ると、想像以上の広さにびっくりしました。
小さいお城ですが、遺構が明確に残っているので、散策が愉しめるお城ですね。