打吹城が築かれる前に、山名氏が伯耆の守護所として築いた山城。川沿いの険しい岩山に築かれたことから、巖城とも呼ぶ。
南北朝時代の武将山名時氏は、源氏の名門新田氏の一族ではあったが、縁戚関係などから、同じく源氏の名門である足利氏と近しく、足利尊氏の鎌倉幕府に対する挙兵から建武政権への参加と離脱、室町幕府創業まで、一貫して尊氏に従った。
そして、建武4年(1337)に伯耆の守護職に任じられ、その守護所として築いたのが田内城である。また、一説には、興国年間(1340-47.1)の始めに時氏が築き、嫡男師義を入城させたともいう。
伯耆と言えば、後醍醐天皇を迎えた南朝方の巨魁名和長年の本拠であり、長年は前年に討死しているため、尊氏は信頼する時氏を伯耆に配し、北朝方の勢力拡大を図ったと考えられる。


田内城が構えられた場所は、眼下の小鴨川を遡れば、国府川経由で国府へ到達することができ、天神川を下れば、日本海にも繋がるという、交通の要衝を押さえる地であった。これらの水運を生かして城下町が大いに発展し、見日千軒と呼ばれるほどであったという。ただ、見日千軒は、天文13年(1544)に小鴨川と天神川の氾濫によって壊滅してしまい、打吹城の城下町である現在の倉吉の地に、新たに町が形成された。
田内城を築いた時氏は、伯耆や出雲への対応として、前述のように嫡子師義を派遣し、師義が拠点のひとつとして使ったが、観応元年(1350)から約1年4ヶ月に渡って続いた観応の擾乱では、父時氏が尊氏の弟直義に与したのに対し、師義は尊氏に味方し、袂を分かっている。しかし、出雲や若狭を巡る佐々木道誉との争いもあり、後には、父と共に南朝方に転じた。


このように、山陰で確実に勢力を拡大した山名氏は、北朝方から見れば、討伐するには大きすぎる勢力であり、やがて北朝方から帰順工作が始められることとなる。こうして、貞治2年(1363)には、山名一党が山陰での勢力を保ったまま北朝方に帰順した。
この帰順前後に、師義が延文年間(1356-61)か応安3年(1370)に打吹城を築いて守護所を移したことにより、田内城は廃城となっている。ただ、延文年間の説では、帰順前ということになり、応安3年(1370)の説では、時氏が死去する前年ということも影響したと見られ、やや築城の背景に違いが生じるだろうか。
ただし、田内城には戦国期の改修が見られることから、戦国時代まで打吹城の支城として活用されたと見られ、実質的な廃城時期は不明という。
城は、東から南に掛けては小鴨川が、そのさらに東には天神川が廻る標高58mの仏石山に築かれ、山の突端部を本丸とし、そこから北西の峰筋へ数段を重ねた城である。


遺構としては、整備された本丸、それに続く二ノ丸と虎口、さらに2段と見られる三ノ丸と虎口、土塁、堀切、竪堀などが確認できるが、模擬櫓の建てられている本丸周辺以外は整備されておらず、城域の境目は曖昧な城だった。
城へは、小鴨川沿いの道の巌城橋西詰交差点のすぐ南西に釈迦堂というお堂があり、その先から城へ登る道が出ている。道は2通りあり、そのまま北西に進んでぐるりと迂回しながら峰筋に入る道と、本丸直下の崖をつづら折れで登る道だ。いずれも、距離は短い。
本丸の模擬櫓は、かつては展望台として使われていたと思われるが、訪れた時には入る事ができなかった。また、木々も払われておらず、限定的にしか眺望が無かったが、往時は川筋を監視するには適地で、見日千軒の賑わいもよく見えた城だったのだろう。
最終訪問日:2022/5/24
今は模擬櫓も廃墟状態になってしまって、寂れた感がかなりありますが、かつては地元の人によく親しまれていたんでしょうね。
眺望がもっと開けていたら、お弁当を持って軽いピクニックに出掛けたくなるような城跡です。