Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

草幾山城

 清水川と小鴨川の合流点近くに、真東の方向へ突き出した峰の、比高20m程の突端部にあったと思われる城。サキヤマと読む。

 「伯耆民談記」によれば、三浦景元なる武将の居城で、天正年間(1573-93.1)に羽衣石城の南条氏によって攻撃を受け、落城したと伝わる。

 南条氏は、尼子氏と対立して羽衣石城を追われ、毛利氏の勢力伸長によって永禄5年(1562)に羽衣石城に復帰し、織田氏の勢力が伸びてくると毛利氏から離反して織田氏に通じているが、草幾山城の攻防があったとするならば、この織田氏に通じた頃、すなわち秀吉による鳥取城攻めの少し前だろうか。この頃、天正7年(1579)に毛利家臣吉川元春が羽衣石城を攻略したが、後に南条元続が奪い返し、鳥取城の攻防を挟んで同10年(1582)に再び元春が攻略するなど、激しい攻防戦が行われている。

 また、南東にある要害山にも要害山城があったとされることから、この2つの城は何らかの連携があったのだろう。

 道路地図にプロットしてあったため、都合2度、訪れているが、表示や案内板などは見つからず、場所の特定はできていない。城跡付近は、北には小鴨川、南から東に掛けては清水川が流れており、天然の外堀となっていたと見られ、また、城地である峰の北側は崖、南側は畑となっており、その崖が防御力として機能していたと思われる。城と小鴨川の間には平地があり、城下町があったほどの城とは思えないが、往時にはいくつかの武家屋敷があったのかもしれない。

 

最終訪問日:2001/10/26

 

 

まだGoogleMapなどが無い頃から2回、訪れていますが、現地には案内の類は無かったですね。

案内も無いようなマイナーな城が、ゼンリンの詳細な地図ではなく広域の道路によく載っていたもんだと思いますが、編集者に城好きの人がいたんでしょうか。

周辺は、とても長閑な情景が広がっているので、のんびりできる雰囲気がありました。