Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

高遠城

 築城された年や築城者は諸説あってはっきりしないが、代々居城としていた高遠氏が築城したとみるのが妥当なところだろう。

 高遠氏は、木曾氏の支族との説もあるが、末期の継宗や頼継が諏訪氏を名乗っていることから、諏訪一族という説に説得力がある。

 諏訪上社の大祝職を世襲していた諏訪氏も、戦国時代には惣領家と大祝家に分かれて争い、守護大名から戦国大名へと脱皮した隣国甲斐の武田信虎の侵入を受けたが、天文4年(1535)に和睦し、同9年(1540)には信虎の娘を当主頼重の室とした。しかし、信虎が後の信玄である晴信に追放されると、再び侵入が開始され、天文11年(1542)に諏訪氏は滅亡してしまう。

 高遠頼継はこの時、諏訪家の惣領を求めて武田氏に通じたが、戦後の処遇に不満があるとして叛旗を翻し、信玄と合戦に及んだが敗北した。そして、反対に侵攻を受け、天文14年(1545)に高遠城を開城して降伏している。

 高遠氏を降した晴信は、天文16年(1547)に山本勘助晴幸と秋山信友に命じて城を拡張し、伊那地方の拠点としたが、翌年の上田原の合戦で村上義清に大敗すると、伊那地方の動揺を抑えるために頼継を戻した。その後、城主は秋山信友、信玄四男の諏訪勝頼、信玄の弟信廉、五男の仁科盛信と、重要な拠点らしく重臣や親族が城主となっている。

 武田氏最後の城主となる盛信は、油川婦人を母として信玄の五男として生まれ、初名を五郎晴清といった。四郎勝頼が諏訪の名跡を継いで諏訪旧臣を宣撫したのと同様に、信玄が誅した有力国人仁科盛政の名跡を継いだ人物である。

 天正10年(1582)の織田氏による武田領侵攻の際、織田軍5万に対して盛信は僅か3千で籠城し、凄絶な玉砕戦を演じた。開城や敵前逃亡の多かった武田家中では、武田武士の意地を見せた数少ない武将だろう。

 武田氏滅亡後の高遠城は、武田征討で功のあった毛利秀頼(長秀)の属城となったが、同年6月の本能寺の変後は、武田遺臣の保科正俊とその子正直・内藤昌月兄弟が北条方として攻略した。この後、昌月は甲斐へ転戦したが、黒駒合戦で徳川軍が北条軍に勝利すると、正俊・正直父子は家康に属している。また、天正13年(1585)には、豊臣方の松本城小笠原貞慶が正直の留守を衝いて高遠城を攻撃しているが、老齢の正俊が寡兵ながら奮戦し、撃退した。

 天正18年(1590)の小田原の役後、正直は家康の関東移封に従ったため、高遠城は飯田城主の毛利秀頼、京極高知の属城となったが、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後は、正直の子正光が故郷に再封され、高遠藩が成立している。

 正光は、2代将軍秀忠の唯一の庶子正之を養子に迎えて自らの子として育てたのだが、弟がいることを知った家光によって正之は累進し、やがて会津23万石の藩主となり、子孫は松平姓に復した。血脈は途絶えたものの、この保科氏系の松平家が、幕末の会津藩である。

 保科氏が転封した後の高遠藩は、鳥居氏、内藤氏と代わり、内藤氏が動かずに幕末まで続くのだが、この内藤氏が江戸藩邸を構えたのが今の新宿で、当時は内藤新宿と呼ばれ、敵が甲州街道を攻め上ってくる際の江戸防衛の最初の拠点という役目があった。その縁で、かつて存在した高遠町と新宿区は友好都市の提携を結んでであり、今はそれを引き継いで、伊那市と新宿区が友好都市となっている。

 高遠城は、城の規模としてはそれほど大きいわけではないが、三峰川と藤沢川に削られた断崖に三方を囲まれ、丘陵を利用して本丸や二ノ丸、南郭を中心に段階的に郭が配置されており、なかなかの要害と言えるだろう。

 維新まで藩庁として城が使われたが、戦国時代末期の城の構造が維持されつつ近世城郭に改修されており、明治5年(1872)の民間への払い下げと、翌年の廃城令での正式な廃城の後も、橋の石垣や空堀などの遺構がしっかりと残されたため、当時の城郭の構造を把握しやすい城である。

 現在の城跡には、明治になって旧藩士が馬場から桜を移したのが最初となって、1千5百本以上のコヒガンザクラが植えられており、桜の名所として春には多くの花見客で賑わう。ポスターやパンフレットには、その桜で飾られた城が綺麗な写真で載っており、非常に美しいのだが、混雑して散策どころではなくなると思われるので、城の散策を優先するならば、桜の季節は外した方が無難である。

 

最終訪問日:1996/8/25

 

 

桜で有名なお城ですが、訪れたのは夏で、ほとんど人がいませんでした。

桜の時期には、それはもうたくさんの人で賑わうんだと思いますが、人の気配が無い高遠城も、それはそれで雰囲気がありましたね。

ただ、城の記憶がもう朧気になっているので、そろそろ再訪したいところです。