Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

龍岡城

 幕末に築かれた西洋式の星形要塞は、函館の五稜郭が有名であるが、日本にはもうひとつの五稜郭があり、それがこの龍岡城である。別名として、龍岡五稜郭とも呼ぶ。

 龍岡城が築かれたのは、その形状から解るように、幕末である。

 当時の田野口一帯の領主は、三河奥殿藩で、大給松平氏真次流の松平乗謨が藩主であった。乗謨は、手狭であった奥殿から、4分の3の領地が存在する佐久への本拠移転を考え、文久3年(1863)に新たな築城を許されたのだが、これは文久の改革に伴う参勤交代制の緩和を好機として許可を得たものという。

 乗謨は、幼い頃から聡明さを知られ、時勢の紛糾する中、砲撃戦に関する研究を進めていたようだ。そして、藩の役所のあった田野口を城地と決め、稜堡式の星形要塞の設計を採用した。

龍岡城大手口と城址

龍岡城解説板

 築城は、現地には同年の9月着工の表記もあるが、同年11月、あるいは翌元治元年(1864)3月に開始したとされ、慶応3年(1867)4月に主要な施設が完成したという。そして、完成を祝って領民に新型城郭が公開された。この辺りは、農民兵を組織した乗謨の開明的な性格が窺えるだろう。また、当時は地名から田野口藩とは呼ばれ、乗謨が1万6千石の無城大名格であったため、正確には陣屋であった。

 城郭の主要部分が完成した後、細部の普請や作事が行われる予定であったが、乗謨が若年寄や陸軍奉行、老中、陸軍総裁といった役職で幕府中枢に参画していたことや、藩政においては、フランス式軍制の導入や殖産興業に重点が置かれたため、未完成に終わった部分も多かったようだ。

龍岡城の堀と橋

龍岡城の堀の無い部分の稜堡

 その後、慶応4年(1868)の戊辰戦争の勃発を機に幕府要職を辞任した乗謨は、新政府に恭順の態度を示し、同年5月28日に竜岡藩へと改称している。だが、翌明治2年(1869)の版籍奉還を経て、同4年(1871)には財政破綻から廃藩を自ら申し出て廃藩となり、城も翌年に建物などが競売に掛けられ、同6年(1873)の廃城令で正式に廃城となった。

 城は、雨川が千曲川へと流れ込む谷筋に築かれており、南北を西に張り出してくる山塊によって挟まれており、近世末期の城郭ながら、中世の居館の立地に近い。

 一般に星形要塞は、砲撃戦に対処するための要塞であり、堡塁を張り出させて死角を無くすような設計となっているが、それはあくまで標高が同程度か攻撃軍より高い位置を占めるという前提がある。龍岡城の場合は、南北の山塊の頂上どころか中腹までの距離ですら500m程度しかなく、そこまで砲を引き上げれば簡単に城内に届いてしまう。つまり、星形要塞の強みが発揮できない立地なのである。

南側の稜堡先端の石垣は丸い

西北にやや離れて残っている桝形と城址

 このことから、龍岡城は、防衛上の理由から星形要塞を採用したのではなく、乗謨の学究的方針からの採用とされているようだ。実際に堀の幅が狭かったり、石垣の高さが低かったり、城外に関門となる桝形があったりと、軍事拠点としては疑問を感じる場所が多い。

 訪れた際の龍岡城は、まだ田口小学校の学校用地となっていた頃で、中心部の散策はできなかったのだが、星形要塞だけに、城外の堀や石垣を見て回ることができれば縄張を見るには十分で、その点は助かった。その田口小学校が統合によって令和5年(2023)3月31日をもって廃校となったため、今後は校舎を撤去し、残存する御台所を元の位置に戻して大手門を復元するなど、築城時の姿に戻していく方針という。

 

最終訪問日:2019/5/11

 

 

龍岡の五稜郭に訪れ、日本の西洋城郭は全制覇ですね。

2つしか無いけど笑

時間が遅かったので、五稜郭であいの館に入館できなかったのは残念でしたが、非常にのんびりと散策できて、有意義な時間を過ごせました。