Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

妻籠城

妻籠城登山口と城址

 妻籠城の築城者や築城の時期ははっきり判っていないが、伝承では、木曾義仲が上洛する際に築いたとも、足利尊氏に仕えた木曾家村が築いたとも伝えられている。

 城は、室町時代にはすでにあったとされていることから、実際のところは、木曾谷一帯を支配していた木曾氏の勢力が南北朝時代頃に築いたものと思われ、木曾川下流の美濃方面と太平街道のある飯田方面に対する防衛、侵攻の拠点だったのだろう。

 室町時代妻籠の領主として史料に見えるのは、現地の豪族である妻籠氏で、妻籠氏は木曾氏の一族であったようだ。当時は木曾谷が美濃国に属していたため、名目上は美濃守護の土岐氏の指揮下にあり、材木供出を土岐持益から命じられている。

 戦国初期の独立大名としての木曾氏支配の時代や、木曾氏が武田信玄に臣従して以降の城の動向はよく分からなかったが、天文年間(1532-55)の初期までは妻籠氏の存在が確認されており、木曾氏に従って一帯を支配し、城は木曾領南部の重要な拠点とされていたのだろう。

妻籠城本丸

 武田氏が天正3年(1575)の長篠の合戦に敗れ、斜陽の気配が色濃くなってくると、木曾義昌は義兄武田勝頼の施策に不満を覚え、天正10年(1582)に信長と通じて武田氏から離反した。当然の事ながら、勝頼は戦国の世の習いとして人質を処刑した上で討伐軍を差し向けたのだが、義昌は信長の援軍を得てこれを撃退している。

 この戦いは鳥居峠で行われ、妻籠周辺で合戦は無かったのだが、「木曾路名所図会」には、この年に義昌が妻籠城を築いて山村良勝を入れたとあることから、城の改修があったと見られ、それは太平街道を通じた飯田方面からの武田軍の侵攻に備えたものだったのではないだろうか。

 同年6月の本能寺の変の後、無主の地となった信濃は、徳川、上杉、北条の3者争奪の地となり、義昌は、当初は北条氏、後に徳川氏に属し、中信濃進出を図ったが、小笠原貞慶が徳川氏の支援で深志城に復帰したことから、天正12年(1584)の小牧長久手の合戦では秀吉方へと転じている。これにより、家康は菅沼定利、保科正直、諏訪頼忠の軍勢を木曽谷へと送ったのだが、良勝がこの妻籠城で迎え討ち、城を死守した。

 ちなみに、この籠城軍の中には、馬籠出身の島崎藤村の先祖と思われる島崎氏を始めとした江戸時代の木曾路の村役人の名字が見えており、良勝が在地の郷士を動員して郷土防衛的な戦いをしたことがよく解る。

左手の妻籠城本丸の切岸と1段下がった帯郭の削平地

 この小牧長久手の合戦は、秀吉と織田信雄が和睦したことによって家康の参戦理由が無くなり、終結したのだが、家康の臣従を受けて秀吉が信濃の差配を家康に任せたため、義昌は再び家康に属した。ただ、以前のような半独立の中世的な家臣の立場ではなく、これを境に次第に近世的な主従関係に変化していったと見られる。また、家康は離反した過去を忘れず、木曾氏に対する心証は悪かったともいう。

 その後、天正18年(1590)の小田原征伐の後、家康は旧北条領である関八州へ移封となったため、木曾谷の代々の領主であった義昌も下総へと移ったが、子の義利は粗暴で叔父義豊を殺害するなどしたため、心証の悪さも手伝い、改易となってしまった。

 木曾氏が転出した後の木曾谷は、木曾氏と無縁になったが、木曾家臣だった良勝や千村良重は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の際に、地縁があることから家康に木曾路の確保を命じられている。その頃に妻籠城の改修があったとされていることから、これらの行動と改修は恐らく繋がりがあるのだろう。また、関ヶ原の合戦に間に合わなかった徳川秀忠は、この城で戦勝を知ったとも伝えられている。

妻籠城大手道の堀切の上にある二ノ郭と見られる削平地

 戦後、良勝は木曽路を押さえた功によって木曾谷の代官となり、尾張徳川家に仕え、子孫は木曾福島の関守として続いた。同じく功のあった良重も、美濃に領地を与えられ、旗本となっている。そして、妻籠城自身は、太平の世になったことで木曾谷防衛の役目を終え、一国一城令によって元和2年(1616)に廃城となった。

 妻籠で有名なのは、江戸時代そのままの雰囲気を残す妻籠宿だが、その宿場町から北方向へ細い道を道なりに抜けていけば、南木曽駅方向へと抜ける旧中山道に入り、妻籠城への登山口へと到着する。地図を見ると、ちょうど川沿いの国道19号線国道256号線を2辺とし、中山道筋を底辺とする二等辺三角形の真ん中辺りに城は位置し、街道筋と川筋の監視という役目が一目瞭然だ。

 登山道を進むと、まず出てくるのが、かなり高さのある土橋なのだが、この橋は往時は木橋であったらしい。次に見えるのは堀切だが、登山道の影響で形が崩れており、これは少しもったいない整備のされ方である。この堀切の右手が二ノ丸に相当する二ノ郭で、ここは藪と化していたが、ざっと歩いた感じでは、若干の高低差を持つ複数の段がある郭のようだ。ただ、藪の影響で詳細はよく判らなかった。

妻籠城の解説と縄張図

 ここから先は本格的に遺構が残り、削平地を挟んで1筋の堀切があった後、少し上がって帯郭へと出る。この上に円形の本丸があり、大きさは直径20m程度となかなか大きい。特徴的だったのは帯郭で、本丸周囲を土塁で囲みつつ1m程度の落差で全周しており、場所によってはその数m下にも同様に2段目の帯郭のある場所があった。同心円状に広がるこのような構造は飛騨にも見られ、山塊を挟んだ先の飛騨と何らかの共通点があるのかもしれない。

 妻籠宿は、休日には非常に多くの観光客が訪れる観光スポットで、主要街道だった江戸時代の頃よりも賑わいがあるのではと思うほどだが、少し外れた妻籠城を訪れる人は少なく、ここでは木曾路の落ち着いた雰囲気が味わえる。

 城付近の道が細く、大きな車で行くのはちょっと気を使うとは思われるが、登山口から城までの道程も10分程度で、気楽に散歩がてら立ち寄ることができる城だろう。遺構もはっきりしていて城の存在感があり、木曾路に観光へ行くなら、是非お勧めしたい城である。

かつての妻籠城大手の空堀に架けられていた木橋は土橋となっている

 

最終訪問日:2012/10/12

 

 

何人かでのツーリングで妻籠を訪れた時に、登城口を発見して以来、いつか訪れたいと思っていました。

さすがにみんなでツーリングしている時に、ちょっと先に行っててくれと、離脱して城を散策するわけにはいきませんからね。

規模の大きくない城ですが、木曽谷らしい地形を利用した堅城さを感じる城でした。