江戸時代に、木曽福島にあった関所の関守兼木曾谷の代官だった山村氏の下屋敷の一部。
江戸時代以前の山村氏は、源義仲の子孫という伝承を持つ木曾氏の家臣であった。木曾氏は、義康の時に武田信玄と争うが、やがて信玄に降伏して木曾谷を安堵され、子の義昌は、信玄の娘婿になるほど優遇されている。
しかし、信玄の没後、信長の勢力伸張を見た義昌は、天正10年(1582)に織田氏へ寝返って武田氏滅亡の端緒を開き、直後の本能寺の変後は家康に属した。
秀吉と家康が争った同12年(1584)の小牧長久手の戦いの際には、秀吉方として行動するも、戦後は再び家康が信濃の大名を統括する立場となり、徳川氏に帰参することとなる。そして、天正18年(1590)の家康の関東移封の際には、義昌は家康と共に下総に移されたが、子の義利は粗暴であったために改易され、大名としての木曾家はここで終わった。
その家臣であった山村氏は、近江出身といわれているが、戦国初期頃に木曾氏に仕え、良利は婚姻で一門衆に迎えられるほど重用されたようだ。その子良候も木曾氏に仕え、下総へ移ったときも子の良勝と共に従ったが、主家没落後に良候は木曾谷へ帰ったという。
一方、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の際、浪人となっていた良勝は、同じく木曾旧臣の千村良重と共に木曾谷の確保を命じられ、木曾谷に戻って挙兵し、父と合流して木曽谷の確保に成功する。その功で、戦後は木曾谷に5千7百石の所領を得、福島の関所が置かれた後は、関守と木曾谷の代官職を兼務した。
その後、良勝は旗本から尾張藩付きへと立場は変わり、権限などの強弱はあったものの、江戸時代を通じて関守と代官の職は山村甚兵衛家で世襲されている。
この代官屋敷は、享保8年(1723)に建設された甚兵衛家のかつての下屋敷ではあるが、その一部に過ぎず、残存部分はそれほど大きくはない。ちなみに、上屋敷は福島小学校の場所にあったとされ、学校敷地全体が屋敷地であったことから解るように、5千7百石の身代に比べてかなり壮大な屋敷を持っていた。それだけ、治安や経済において、山村氏の役割が大きかったという事だろうか。
屋敷の名は、城陽亭といい、江戸時代の武家屋敷に見られる書院造で、大木に囲まれた屋敷は、どこか江戸時代の武家の持つ威厳を漂わせている。城陽亭の前には、築山泉水の庭があるが、屋敷に20あった庭園の内のひとつというから、驚きだ。
最終訪問日:2000/9/10
パッと見たところ、立派な武家屋敷だなと思ったんですが、これが下屋敷の一部、屋敷全体から見ると僅かな部分ということで、かなり驚きました。
平地が貴重な木曽谷にあって、平地にこれだけの屋敷を構えることが許された山村氏の権力が、どれほどのものであったのか、ちょっと想像できませんね。