Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

福島関跡

 江戸時代にあった木曽路の関所の跡。江戸時代の天下四大関所の内のひとつ。

 木曾谷では、源義仲の子孫を自称する木曾氏が古くから勢力を培い、福島へは戦国時代に城を構えて本拠を移してきたといわれている。

 その木曾氏は、武田信玄と争ったものの敗れて降伏し、婚姻によって信玄の一門衆として遇されたが、信玄の死後、信長の勢力伸張によって天正10年(1582)に織田氏へ寝返り、直後の本能寺の変で信長が横死した後は、信州を押さえた家康に仕えた。その後、天正12年(1584)の小牧長久手の合戦では秀吉に属したが、戦後は再び家康に仕え、天正18年(1590)の家康の関東移封に伴って下総に移り、木曾谷から離れることとなる。

 移封後の木曾氏は、江戸時代に入るまでに改易されてしまうのだが、その旧臣山村良勝が、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の際に木曾谷で挙兵して功を挙げ、良勝は故郷である木曾谷に再び領地を得た。

 良勝は、旗本でありながら尾張藩にも出仕し、木曽代官として木曽谷の支配を任されたのだが、江戸時代になって中山道五街道として整備されると、人の流れを管理するために幕府直轄の関所が設けられ、その管理者も任されている。

 関所の設置された年には諸説あり、慶長7年(1602)以前、あるいは同年から同4年の間、はたまた慶長20年(1615)の大坂の陣の頃という説まであり、幅が広い。この関所の関守としては、前述のように良勝が任され、後に良勝は尾張藩付きとなるのだが、職務はそのまま子孫に引き継がれ、山村甚兵衛家として続いた。

 この関所では、俗にいう「入り鉄砲に出女」の監視はもちろんのこと、特産である檜などの木材の持ち出しも厳しく監視していたという。江戸時代には、木曾の木材は良材として非常に需要があり、その密売は、尾張藩の財政に直接影響を与えかねない性質のものであったためである。

 関所は、明治2年(1869)2月の廃関の令によって廃止され、取り壊されていたが、昭和50年(1975)の発掘調査によって遺構が明らかとなった。

 現在は、その関所の跡に礎石が残り、建物も部分的に復元され、その隣には関所資料館もあり、当時の関所の雰囲気を感じることができる。また、木曽川を挟んだ向かいには山村代官屋敷もあり、当時の関所を想像しつつ一帯を巡るのも、なかなか良い。

 

最終訪問日:2000/9/10

 

 

入り鉄砲に出女は有名ですが、木材の密輸摘発も関所の重要な役目でした。

現在でも、脱税や偽札偽造の罪が他に比べて重いことを考えれば、当時も今も、事情はあまり変わらないものだと妙に納得しますね。