Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

大垣城

 大垣城は、応仁年間(1467-69)にはすでにあった平城で、この地の代官職をしていた大垣氏が築城したとされる。築城当初は東大寺城と呼んでいたが、大垣氏の居城であることから、いつしか大垣城と呼ばれるようになったという。

 大垣城が本格的な城として機能するようになったのは、明応9年(1500)の竹腰尚綱の時とも、天文4年(1535)の宮川安定の時ともいわれるが、いくつか説があり、はっきりとは判っていない。時期はともかくとして、この頃は小規模な城であったようだ。

 尾張織田信秀が天文13年(1544)に美濃へ侵攻した際には、尚綱の子重直が居城していたが、織田勢の攻撃で陥落し、織田信辰が城主となっている。その後、しばらくして斎藤道三が城を奪い返し、重直の子尚光が復帰したが、尚光は道三が子義龍に敗れた長良川の合戦で討死し、代わって大垣城には氏家直元が入った。

 直元は、西美濃三人衆と呼ばれた有力家臣のひとりで、卜全という号がよく知られている。大垣城へは、長良川の合戦があった永禄2年(1559)から入り、城を大規模に拡張して西美濃の抑えとなっていた。だが、尾張を制した信長が北上して美濃に侵入すると、卜全は調略を受け、同じく三人衆に数えられていた安藤守就稲葉一鉄良通と共に、信長方へと転じている。

 織田家家臣となった卜全は、伊勢攻略戦や姉川の合戦などで活躍したが、元亀2年(1571)の長島攻めからの撤退の際に討死してしまったため、家督は嫡男の直通が相続し、大垣城主となった。しかし、その直通も、本能寺の変の翌年である天正11年(1583)頃に没したとみられ、その弟行広が家督を継いで城主となったようだ。つまり、同年の賤ヶ岳の合戦の際、転換点となった織田信孝挙兵の時の大垣城主は行広と考えられ、行広から報を受けた秀吉が美濃へと兵を動かし、更に大返しして賤ヶ岳の合戦で勝利を収めたということになる。

岐阜城の復元天守と隅櫓

 賤ヶ岳の合戦後、大垣城は信孝の旧領の一部と共に池田恒興に与えられたが、恒興は同12年(1584)の小牧長久手の合戦で嫡男元助共々討死してしまったため、次男輝政が家督を相続し、輝政は翌年に岐阜城へと転じた。

 輝政の後は、羽柴秀次羽柴秀長、加藤光泰、秀次の家老としての一柳直末、羽柴秀勝が相次いで城主となり、一柳直末の時の天正13年11月(1586.1)に、天正地震で倒壊焼失してしまっている。この後、秀吉の命で本格的な近世城郭に改修されたといい、四層四階の天守はこの直末が築いたとも、秀勝の次に入部した伊藤祐盛(盛景)が築いたともいう。

 祐盛の子は盛宗(盛正)で、祐盛の没後に大垣城主となっていたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の際、石田三成の依頼で大垣城が西軍の根拠地となったことから、城は関ヶ原の合戦を語る上で欠かせない存在となる。

 関ヶ原の本戦前夜、西軍陣営が家康の本陣を衝くかどうか大垣城で議論している間に、東軍が大垣城を迂回して佐和山城を直接衝くかのように西に動き始めたため、西軍は急いで先回りして関ヶ原に陣取った、というのがその内容で、関ヶ原前史としては有名な話だろう。

 ただ、この両軍の動きには諸説があり、家康が苦手な城攻めではなく、野戦に持ち込むために行軍したというのが一般的ではあるが、石田三成が陣を構えた笹尾山には用意周到な土木工事が施されていたことから、もともと三成にとって想定内の行軍であったという説もあるようだ。

岐阜城の江戸時代の縄張

 いずれにしても、この関ヶ原の合戦本戦では西軍の敗北という結果に終わり、当然ながら大垣城も本戦終了後に東軍の攻撃を受けることとなる。城内では、本戦の敗北で留守を務めていた諸将に動揺が広がり、高橋氏や秋月氏、相良氏などが寝返る中、三成の女婿である福原長堯(直高)は抗し続け、最終的に城兵の命と引き換えに降伏開城した。このように、大垣城は、関ヶ原の本戦前後の状況を知る上で、非常に重要な城となったのである。

 関ヶ原の合戦後の城は、慶長6年(1601)から石川康通が入り、久松松平氏、岡部氏、久松松平氏親藩譜代が頻繁に藩主が入れ替わったが、これは東山道を扼す重要拠点というのを表しているのだろう。その後、寛永12年(1635)に戸田氏鉄が摂津尼崎から移って以降は、新田開発や治水工事によって安定し、戸田氏が維新まで続いている。

 維新後は、石垣や堀などが破却や埋め立てで失われ、本丸と二ノ丸以外の城地は市街化したが、四層四階という珍しい構造の天守は残り、昭和11年(1936)に国宝に指定された。しかし、惜しくも空襲で焼失してしまい、現在は昭和34年(1959)に復元された天守が資料館を兼ねて建っている。ちなみに、郡上八幡城の模擬天守は、まだ存続していた頃の大垣城天守がモデルという。

 当時の城は、南北に並ぶ本丸と二ノ丸を中心に、その外側に三ノ丸以下の各郭が輪を描くように置かれていた輪郭式の城で、最も多い所では四重の堀が防御力を高めていた。

 現在は、中心だった本丸と二ノ丸の跡が、小さな動物園を持つ公園として残り、市街地の中にある、のんびりした憩いの場となっている。防衛の要であったはずの入り組んだ堀は、水門川が今も健在である以外は埋め立てられており、公園周辺の道に面影を何とか見出せる程度でしかないが、往時の姿を道から想像するのも愉しい城だろう。

 

最終訪問日:2002/11/13

 

 

縄張図を見ると、今の市街化した街中とはびっくりするぐらい違う、水郷の城だったようですね。

大きく見れば、大垣市一帯は、流路を度々変えていたであろう揖斐川水系の河川敷や中州でしょうし。

縄張図を見るまで気付かないぐらい、今はガチっとした陸地になっていますが。